2020年5月31日日曜日

「一人歩き、ひとり歩き、独り歩き」という言葉の独り歩き

「ひとり歩き」という言葉が最初だれによってどういう風に使われたのかということには非常に興味を持っているが、今のところそれについては詮索せずに、最近思ったことを書いてみたい。

この言葉が最初から比喩的に使われる言葉であったことは疑う余地はないだろう。それだけにその意味するところのも本当に追求してゆくこと自体がそう簡単なことではないだろうと思う。簡潔に言えば、「ひとり歩き」という言葉自体がひとり歩きしやすいのではないだろうか。

というのは、私がこのブログで何度か、この表現であわわされる意味内容を テーマにしているが、私がこれまでこの表現を使ったのはシニフィアンとシニフィエ(これらの言葉を使ったかどうかには関わらず)との問題についての文脈においてである。つまり、言葉は本来、シニフィアンとシニフィエのセットからなるのであるから、シニフィアンだけがシニフィエを伴わないまま歩き出すことを意味するといえる。もう一度言い換えると、前回の記事で述べたように、言葉という乗り物に意味という乗員がいない幽霊船のような感じである。であるから、言葉について言う場合はシニフィアンについて言っているのでシニフィエについては、普通、言葉について述べる以上は、こういうことはあり得ないのである。

ところが現実には普通の意味での言葉、つまりシニフィアンとシニフィエとがそろった状態で「ひとり歩き」という言葉が使われる場合がある、というかそれが現実ではないだろうか。もちろんそういう言葉の「ひとり歩き」もあるだろう。というより、こちらの使い方が本来の使い方なのだろう。だからこそ、私は「シニフィアンの」という限定語を付けなければならなかったとも言える。ただし、その場合、その言葉が何から離れて独り歩きしだしたのか、本来その言葉が共に歩かなければならなかったはずの、そのものが何であるかを明らかにする必要があるだろうと思う。それがなければ「ひとり歩き」という言葉自体のひとり歩きになってしまいそうだ。

端的に言って、文脈がわからないというか、曖昧なままで、唐突に何かが「ひとり歩き」したと言われると、何を言わんとしているのかわからないか、意味不明な場合が往々にしてあるように思われる。ちなみに、独り歩きという漢字の使い方はいいなと思う。こういう漢字の使い方ができるというのは日本語の独壇場だろう。「一人」を「独り」と書き始めたのは誰だったのだろうか。

2020年4月15日水曜日

感染者という言葉の一人歩き

コロナウィルス関連で、またいくつものキーワードが頻繁に使用されるようになった。その中で最初からもっとも気になり、メディアやオーソリティによる使い方に不満を覚えているのは『感染者』という言葉である。端的に私の考え方を言えば、殆どの場合、『感染者』は『感染判明者』あるいは『感染診断者』、あるいはもっと正確に具体的に、どのような診断法や検査方法で判明した感染者であるかを示すべきだと思うのだが、さしあたり『感染判明者』が最も適切ではないかと思う。

 『感染』という言葉自体、もちろん程度の問題であるども、最初から概念が明確であるとは言えない。ウィルスもウィルス感染者も目に見えないか、識別できない。なんらかの症状はだれの目にも見える場合もあるが、症状と感染とはもともと別物である。結局のところ感染者は何らかの検査や診断により陽性と判明した者のことであり、特定の検査や診断と切り離された抽象的な感染者というものはないといえるし、少なくとも数値的に表されるものとしてはあり得ない。

一方、感染者と併せて言及される死亡者の方は、はっきりと目に見える概念であるとはいえる。もちろん、『死』自体は他者からはっきり目に見えるとはいえるが、原因までもが誰の目にも見えるとは限らない。とはいえ、同じ文脈で使われる場合、死亡者数は感染者数の中に含まれることが明らかであるから、感染者数に比較すれば死亡者数は遥かに概念が明確であり、数値としては信用できることには間違いがない。しかし報道や一般に語られる内容をみれば圧倒的に『感染者』の方が多いのである。これはもう、感染者という言葉(シニフィアン)の一人歩きが蔓延しているとしか言いようがない。

言葉をシニフィアンとシニフィエに分析する有名な考え方は私自身、どれほどよく理解しているかは心もとないが、有用であり、便利だと思う。ただ私はカッシーラーの、言葉を乗り物に例える表現が好きである。乗り物のように、ある一つの乗り物に殆ど決まった乗員だけが乗っている場合もあるが、相乗りもあれば、乗員や乗客が交代する場合もある。時にはほとんど幽霊船のような場合もあるだろう。乗員に相当するものが概念であるとすれば、概念自体に極めて濃淡があり、かつ移ろいやすいものなのだから。

2020年2月14日金曜日

人工知能と人工頭脳 ― その3(人工知能という言葉とAIという略語の併用)

ニュース番組などで人工知能という言葉が使われる場合、申し合わせたようにAIという略語との併用で話される。AIと言った後、必ず人工知能と言い直す。これは文章の場合も同じであってカッコ付きか併用で用いられる。外国の場合はどうなのかよくわからないが、例えばWikipediaでその項目を見ると、やはり英語でもAIとArtificial Intelligenceを併用してどちらかをカッコに入れて使われる傾向があるように思われる。なぜこんな面倒くさい言葉が使われるようになったのだろうか?このこの熟語、本来は専門用語であったこの熟語自体への違和感とか問題点についてはすでに過去2回にわたって表明させて頂いたが、取り合えず、すでにこの言葉で何らかの概念が表現される習慣が定着してしまい、他の用語を使うことが難しくなってきた状況さえ考えられる。とはいってもやはり違和感あるいは使い心地の悪さ、面倒さは拭い去れない。

この言葉に相当する過去の用語はやはり人工頭脳をおいて他にはないのではないだろうか。人工頭脳という言葉があまり使われなくなった理由を考えて見るとそれは、後から、コンピューターという用語が一般的になってきたからと思われる。というのはそれ以前、日本語の場合であるが、電子計算機という言葉しかなかったところ、計算以外の目的でも使われる計算機としてコンピューターという英語が使われるようになった。さらにパソコンが普及してソフトウェアがソフトと呼ばれて個人的にも購入されるようになり、ハードウェアとソフトウェアという言葉と概念が一般的に使われるようになった結果、ハードウェアとソフトウェアが一体になった概念を適切に表現する言葉が見失われたのではないだろうか、そういう時に別のところから人工知能という言葉が登場したので、この言葉にうまく便乗したのではあるまいか。すでに前回、前々回で述べたようにこの人工知能という概念は不自然で実態があやふやな概念に思えるのだが、新味はある。という訳でハードウェアとソフトウェアが合体した概念がこの新味のある言葉に乗り移ったのではないだろうか。あの、シニフィアンとシニフィエとの複雑怪奇な関係として。

一方、人工知能というシニフィアンの立場から考察してみると、人工知能は本来従来になかった新しい人口の創造物としての概念を表現する意図をもって登場したはずである。そういうものが存在し得るかどうかは別として、そういう概念を表すシニフィアンに、従来からあったハードウェアとソフトウェアの合体物(私は人工頭脳と言って良いと思うが)が相乗りしてきたのだともいえる。そういう相乗りを許したということは、もちろん相乗り自体はあり得ることだが、もともとの人工知能というシニフィアンの中身あるいはシニフィエが空虚であったのではないかという疑いがもたれるのである。要するに空車であったからこそ楽々と入り込むことができたのではないだろうか?

では、人工知能という熟語とAIという略語の併用という現象は何に由来するのだろうか?もちろんAIという略語ではわかりにくいから人工知能という正規の用語で言い直しているのであるけれども、そういう面倒な言葉を使用するのは、端的にいって他の言葉を使いたくないからであろう。要するに新しさを演出したからであろう。人工頭脳と言えば多少は自然で分かりやすいと思えるのだがそれを使わないのはもはやこの言葉がすでに古びてしまい、新しさを演出できない。AIを併用せずに人工知能だけで済ますのは、やはり抵抗を感じるか、反感あるいは違和感を慮ってのことではないかとも思われる。個人的に思うのは、あまりにも漠然とはしているが、単にITでもデジタル技術でも良いではないか、と思うけれども。