2020年6月4日木曜日

鏡像問題の議論に見られる英語表現の問題点について考える ― 「ブログ・発見の発見」の記事を転載します

以下は昨日、別ブログ「発見の発見」に掲載した記事ですが、もともと当ブログで扱っていたテーマを継承した問題でもあり、特に多くの読者に読んでもらいたく思っている内容なのですが、最近ではなぜか、そちらのブログへのアクセス数が伸びなやんでいることもあり、こちらの方にも転載することにしました。また昨日の記事への追記部分もあります:

 鏡像問題の議論に見られる英語表現の問題点について考える


筆者はある時期から英語翻訳を仕事にしてきたということもあり、英語表現の得失、平たく言えばいろんな局面において英語と日本語の優劣について考える機会は多かったのですが、ある時期から仕事とは別に、鏡像問題に関心を持って深くかかわるようになり、その方面で英語の論文や著作物に触れる機会が多くなり、挙句の果て、自分で英文の論文作成を試みるまでになってしまいました。そんなわけで、それまで何となく断片的に考えていた英語使用の得失、とくに科学的な考察における英語使用の得失、メリットとデメリットがかなり明確に意識できるようになってきたように思います。今回、取り合えず急いでまとめてみたいと思い、あまり時間をかけて多面的に考察することもできないので、1つの問題についてのみ、1、2の例を挙げるだけで整理してみたいと思います。この問題に限って言えば英語のメリットではなくむしろデメリットに該当します:

結論として端的に言えば、現在の英語、文章として使われている英語は、技術的な目的では極めて論理的かつ効率的に考察も表現もできるように発達しているように思いますが、真に深く意味を掘り下げ、追究するという意味では、行き過ぎた名詞的表現と、潜在的な擬人的表現により、決して小さいとも浅いとも言えない陥穽に陥る可能性を無視できないように思います。確かに一部の知識人がよく云うように、優れた英文は抽象的な概念において洗練され、論理的に見通しよく整理されているかもしれませんが、そういう見かけ上整った論理性や洗練された抽象表現の中身自体が、そもそもどれほどのものなのか、反省してみることも必要ではないでしょうか。言い換えると形式論理よりも意味論に注目すべきではないかと言えるかもしれません。

ここで鏡像の問題では欠かすことにできない用語である「Reflection」について考えて見たいと思います。この用語を岩波理化学辞典で引いてみると「Reflection=鏡映」と「Reflection=反射」という二つの項目に出会います。「鏡映」の方は数学的な定義のようで、同じ英語でも「Mirror operation」という別の用語が併記されています。この意味で日本語の用語は「反射」ではなく「鏡映」となっているのも意味深いですね。つまり、この翻訳語を考えた人物は、この意味では「反射」という用語は不適当であると判断し、賢明にも「鏡に映す」という表現を選択したことがわかります。

以上からわかることは、鏡の機能としては通常、物理的な光の反射が考えられ、日本語でも英語でも同様に「反射」が使われるのですが、英語の場合は視覚イメージについても反射という言葉が使われるということです。日本語では普通、「人の姿が鏡に映る」とは言いますが、反射するとは言いません。そういう人がいるとすれば、たぶん英語の影響でしょう。また日本語では鏡を主語にしてこういう意味のことを表現することはあまりないと思います。「映す」という他動詞も使えますが、普通は人が主語で、鏡に自らの姿を映すというような表現であって、鏡が主語になってものの姿を「映す」というような表現はあまりしないように思います。ある日本語の鏡像問題論文で鏡を主語にして「映す」という表現に遭遇したことがありますが、この場合は相当に英語表現の影響を受けた上での表現だと思います。

一方、日本語ではボールなどが平面の物体にぶつかって反発する際にも「反射」を使うことがあります。これは物理的に考えても極めて自然なことだと思います。物体は引力の影響を受ける点で光線とは違いますが、現象的には、客観的に観察できるという点で、光線の反射と殆ど同じような現象であると思うのですが、なぜか英語ではreflectという言葉ではなくbounceという言葉を使うようです。

要するに、英語では光と像(視覚像、視覚イメージ)を区別していないのです。これは視覚イメージに関わる問題を考える場合に致命的ともなり得る誤解に導かれる可能性があるように思われます。そもそも光は物理的存在ですが、像は人に認知されて初めて像となるのであって、観察者なしでは存在し得ないものです。光の場合、ボールのような物体と同様、明るい窓や光源から出た光線を鏡で反射させて暗いところに向けることができますが、像についてそのようなことができるでしょうか。像はヒトが認識するコンテンツであって、ヒトの意識内にのみ存在するものです。ある人が鏡の向こうに自らの姿を認めることができたところで、横から見ている別人が鏡の背後に、当の観察者が自らの鏡像を認識しているその位置に、そのような鏡像を見ることができるでしょうか?その位置にそのような姿を持つ本体が実在しているかのような推論をすることは、鏡像の擬人化あるいは物質化に他なりません。そうして実際、英国人心理学者によって英語によって記述された鏡像問題の研究でそのような、結果的に鏡像を擬人化しているとしか思えないような考察が見つかっている訳なのです。例を挙げると、グレゴリー説がそうですが、それ以外に物理的な光線の幾何光学のみによって説明している同じ英国人のヘイグ説も結果的にそれに該当するように思えます。ヘイグ説は光線の幾何学のみによって説明しているので一見、擬人化とは無関係のように見えますが、鏡映反転という視覚イメージの問題を光線の幾何学のみで説明しているという点で、結局のところ光と視覚イメージを同一視していることになり、擬人化と同じことであると言わざるを得ません。
[グレゴリー説の方は、良く知られていると思いますが、要するに光学的な条件を否定し、観察者やまたは物体の物理的な回転のみで鏡映反転を説明する説です。これは観察者が見ている視覚像が何らかの鏡像であるか実物の像であるかに関係なく成立する説明なので、対象が人の場合、鏡を取り払って鏡像の位置に別人が入れ替わったとしても成立し、結果的に鏡像の問題ではなくなるわけです。しかしいかにももっともらしい説明に見えるので、今でも、少なくとも部分的に正しい説として通用しているように見えます。実を言えば私自身その擬人化に気づかず、これがすべてを説明する完全な説明ではないものの、部分的に有効な説明であるという印象を持っていました。しかし本当に根本的な原因を説明するという意味では、今となっては完全否定すべき説明だと考えています。(6/4 追記)]

有名な高野陽太郎東大名誉教授は、英語の論文においても、グレゴリー説やヘイグ説を正しく批判し、彼らの論旨を正当に否定していると思います。しかし、氏はグレゴリー説やヘイグ説が鏡像の擬人化ないし物質化に陥っていることには気づいておらず、擬人化においてむしろ両者の上を行くような複雑な論旨を展開しているように見えます。これは氏が英語表現からの強い影響を受けていることにもよるのではないか、というのが私の見方です。

もちろん鏡像は本質的に、単独で見る限り鏡像ではない姿と区別できないものであり、鏡像を擬人化するような考え方は言語に関わらずごく自然に起こりえることです。しかし鏡像の問題を科学的に考察すべき科学者までがそのような擬人化に陥ることは多分に言語表現のシステムに関わることであり、私見では、英語は学術的な表現においてもこのような点でむしろ、日本語よりもプリミティブな面があるのではないかという疑いを禁じ得ないのです。

そもそもこういう鏡像の擬人化は見方を変えると、鏡そのものを擬人化することに始まっているとも言えます。そもそも人以外の物体を主語にして他動詞を用いて何らかの現象を表現すること自体が擬人化と言えなくもありませんが、そこまで突き詰めることは今は避けたいと思います。ただし、例えば「光を反射する」というように物理的なものを対象とするのではなく視覚イメージのような物理的ではないものを対象として、鏡を主語にして表現するとなれば、これはもう限りなく擬人化に近づいて行く可能性があります。視覚イメージの場合、日本語でも「鏡が姿を映す」とは言いますが、「鏡が姿を反射する」とは言いません。英語ではそれがあり得るように思われます。英語で「映す」は「project」になるでしょうか。しかし鏡の場合に「project」を使うと何か不自然ですね。

鏡を擬人化するといえば、例えば白雪姫の童話のように鏡に人格を与えたり、「鏡よ、鏡よ」と鏡に呼び掛けたりすることを想像しがちですが、こういうあからさまな擬人化の話は、聞く方でもそれが擬人化であることがわかります。しかし単に主語として使われるだけの場合、それが擬人化であっても普通はそうとは気づかれないですね。ですからこういう場合は潜在的な擬人化の可能性とでもいうべきかと思います。問題なのはこういう表現は日常の表現よりもむしろ学術的あるいは科学的な言語表現で使われる場合が多いことです。冒頭の方で述べたように、英語では特に著しいように思いますが、簡潔な名詞的表現とよばれるところの、何であっても名詞的に表現される概念が次々と生産され続ける傾向です。いったん名詞化されたものは簡単に主語として使われるようになります。それが英語らしい、いかにもスマートな表現として定着することになります。

以上のような問題は自然科学と社会科学ではまた異なった分析をする必要があるかもしれませんが、いずれにしても難しい問題です。ただし、少なくとも英語の優れた表現にはこのような、決して小さくはない陥穽もが潜んでいることにも、特にこれから英語に取組まなければならない若い人たちにも注目してもらいたいと思います。
(昨日に投稿した記事ですが、[]内を追記し、タイトルも少々変更しました。6月4日)

2020年5月31日日曜日

「一人歩き、ひとり歩き、独り歩き」という言葉の独り歩き

「ひとり歩き」という言葉が最初だれによってどういう風に使われたのかということには非常に興味を持っているが、今のところそれについては詮索せずに、最近思ったことを書いてみたい。

この言葉が最初から比喩的に使われる言葉であったことは疑う余地はないだろう。それだけにその意味するところのも本当に追求してゆくこと自体がそう簡単なことではないだろうと思う。簡潔に言えば、「ひとり歩き」という言葉自体がひとり歩きしやすいのではないだろうか。

というのは、私がこのブログで何度か、この表現であわわされる意味内容を テーマにしているが、私がこれまでこの表現を使ったのはシニフィアンとシニフィエ(これらの言葉を使ったかどうかには関わらず)との問題についての文脈においてである。つまり、言葉は本来、シニフィアンとシニフィエのセットからなるのであるから、シニフィアンだけがシニフィエを伴わないまま歩き出すことを意味するといえる。もう一度言い換えると、前回の記事で述べたように、言葉という乗り物に意味という乗員がいない幽霊船のような感じである。であるから、言葉について言う場合はシニフィアンについて言っているのでシニフィエについては、普通、言葉について述べる以上は、こういうことはあり得ないのである。

ところが現実には普通の意味での言葉、つまりシニフィアンとシニフィエとがそろった状態で「ひとり歩き」という言葉が使われる場合がある、というかそれが現実ではないだろうか。もちろんそういう言葉の「ひとり歩き」もあるだろう。というより、こちらの使い方が本来の使い方なのだろう。だからこそ、私は「シニフィアンの」という限定語を付けなければならなかったとも言える。ただし、その場合、その言葉が何から離れて独り歩きしだしたのか、本来その言葉が共に歩かなければならなかったはずの、そのものが何であるかを明らかにする必要があるだろうと思う。それがなければ「ひとり歩き」という言葉自体のひとり歩きになってしまいそうだ。

端的に言って、文脈がわからないというか、曖昧なままで、唐突に何かが「ひとり歩き」したと言われると、何を言わんとしているのかわからないか、意味不明な場合が往々にしてあるように思われる。ちなみに、独り歩きという漢字の使い方はいいなと思う。こういう漢字の使い方ができるというのは日本語の独壇場だろう。「一人」を「独り」と書き始めたのは誰だったのだろうか。

2020年4月15日水曜日

感染者という言葉の一人歩き

コロナウィルス関連で、またいくつものキーワードが頻繁に使用されるようになった。その中で最初からもっとも気になり、メディアやオーソリティによる使い方に不満を覚えているのは『感染者』という言葉である。端的に私の考え方を言えば、殆どの場合、『感染者』は『感染判明者』あるいは『感染診断者』、あるいはもっと正確に具体的に、どのような診断法や検査方法で判明した感染者であるかを示すべきだと思うのだが、さしあたり『感染判明者』が最も適切ではないかと思う。

 『感染』という言葉自体、もちろん程度の問題であるども、最初から概念が明確であるとは言えない。ウィルスもウィルス感染者も目に見えないか、識別できない。なんらかの症状はだれの目にも見える場合もあるが、症状と感染とはもともと別物である。結局のところ感染者は何らかの検査や診断により陽性と判明した者のことであり、特定の検査や診断と切り離された抽象的な感染者というものはないといえるし、少なくとも数値的に表されるものとしてはあり得ない。

一方、感染者と併せて言及される死亡者の方は、はっきりと目に見える概念であるとはいえる。もちろん、『死』自体は他者からはっきり目に見えるとはいえるが、原因までもが誰の目にも見えるとは限らない。とはいえ、同じ文脈で使われる場合、死亡者数は感染者数の中に含まれることが明らかであるから、感染者数に比較すれば死亡者数は遥かに概念が明確であり、数値としては信用できることには間違いがない。しかし報道や一般に語られる内容をみれば圧倒的に『感染者』の方が多いのである。これはもう、感染者という言葉(シニフィアン)の一人歩きが蔓延しているとしか言いようがない。

言葉をシニフィアンとシニフィエに分析する有名な考え方は私自身、どれほどよく理解しているかは心もとないが、有用であり、便利だと思う。ただ私はカッシーラーの、言葉を乗り物に例える表現が好きである。乗り物のように、ある一つの乗り物に殆ど決まった乗員だけが乗っている場合もあるが、相乗りもあれば、乗員や乗客が交代する場合もある。時にはほとんど幽霊船のような場合もあるだろう。乗員に相当するものが概念であるとすれば、概念自体に極めて濃淡があり、かつ移ろいやすいものなのだから。