2012年10月14日日曜日

横書きの漢字熟語は、明朝系のフォントがゴシック系よりも読みやすい ― 縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題その5

このタイトルの記事は「その4」で「まとめ」としていったん終了していますが、その後ちょっと気の付いた断片的一事例です。

気の付いたことというのは、横書き表示される日本語フォントでは、漢字の場合、縦横ともに単純な棒状の線で構成されるゴシック系のフォントよりも、横線の右側に上向きの三角(ウロコと呼ばれるそうですが)のついた明朝系の方が読みやすいのではないか、ということです。少なくとも個人的にはインターネット記事を見ているときなど、それを感じます。

これはこの三角形、うろこが必ず右側にあるために、左から右に向かう動きという方向性が感じられるためと考えられます。明朝体というのは「楷書の諸要素を単純化したものが定着している」そうですが、楷書の筆順では横線の場合、筆を左から右に向かって引くためにその動きが横線の形に表現されています。

前回までの記事で述べてきたように、左右の感覚は基本的に上下のような絶対的な方向性を持たないために、文字の横書きでは一定の規則や習慣によって左から右への方向が定められているわけですが、この横線の形態に現れた心理的な方向性によって、規則で定められた方向性が強化されているといえます。

さらに言えば、漢字の場合、横線の筆順、左から右への筆順は右利きに由来すると考えれば、この現象も人間の右利きに由来するといえるかもしれません。また横線のウロコに限らず、全体としての線の抑揚も筆順に由来するものであるため、抑揚が強いフォントの方が横書きに向いているように思われます。


◆ただし、読みやすさというのは単に横書きの場合の方向性だけではないので、上記のことは単に一つの要素にすぎないといえます。一つ一つの文字の読みやすさやその他の要素に比べてどれ程の比重を持つかについてはこれだけで何とも言えないものがあるように思います。









2012年7月12日木曜日

歴史書と哲学書そして現代思想書(思想家の思想とは限らず)

今年の冬ころから思い立ってカントの純粋理性批判を読み始めたが、春頃には忙しくなったため中断した。その後、時間が取れるようになってもなかなか再開できない。とりあえず一つのまとまりである(先験的原理論の第一部門となっている)「先験的感性論」は何とかその場限りの文脈的理解というか、文脈上は「自分なりに」理解して読めたような気がする。しかし中断してから数か月ともなると忘却は如何ともしがたい。続いて「先験的論理学」の「先験的分析論」の途中までは読んだが、今からしおりの位置に戻っても読み続けることができるだろうか?たぶんできないだろう。ということで、なかなか再開できずにいる。


その代り歴史書がしきりに読みたくなり、何冊か読んだり、読み直してみたり。もとより基礎的な背景知識はこういう本を読む素人としても少ない方なのでそうやすやすと読めるわけではない。

それにしても哲学書と歴史書の表現はある意味で対極、極度に対照的である。


哲学書は端的に言って「〇〇とは何か?」の集積であるとも言えるのに対して歴史書は端的に言って「〇〇が何をしたか?」の集積である。さらにここでの〇〇はだいたいが固有名詞である。おおよそ哲学的とは言えないのである。悪く言えば下世話な挿話の集積であるともいえないこともない。ある意味では歴史書を読むのは哲学書を読むよりも格段に楽であり、楽しいともいえる。もちろん難しい過去の用語、政治経済法律がある。固有名詞にしてもおびただしい数の固有名詞を識別しなければならない。

包括的に、あるいは専門的に研究するのであれば、頭をフルに回転させなければならないという点ではどちらも同じようなものかもしれない。しかしそれにもかかわらず哲学者から見れば歴史家は安易で気楽に見えるのではないだろうか?歴史書にも面白くない、退屈なものも多いだろうが、楽しみながら読める歴史書は多いし、歴史家自身が楽しんでいることも多い事だろう。もちろん苦しみもあるだろうが、哲学の場合とは相当に性質は異なるように見える。他方、哲学者は楽しみながら哲学をできるだろうか。もちろん幸福と楽しみとは別である。


たとえば哲学者の梅原猛氏の場合、仏教など宗教についての本はたくさんあるが、専門的な哲学の書物、あるいは解説書なども、少なくとも一般向けには出されていないようだ。それに対して古代史関係の書物では有名な研究書がいくつかある。


哲学者が歴史に興味を持ち、歴史研究と何らかの関わりを持つことは当然ありうることだし、哲学と歴史の両方に興味を持ち、同じ比重で研究する学者も当然ありうる。あるいは一般に思想家というのはそういうケースが多いのかもしれない。中国や日本で昔から「学問」とされてきたものはそういうものだったのだろうか。

しかし少なくとも哲学的なものに一切の興味を持たずに歴史の研究に没頭することはできるし、歴史書を読むことも可能である。その場合はやはり、一方を忘れている、あるいは一方に対して盲目である、あるいは置き去りにしているということになるだろうか。


とはいえ、歴史と哲学の両方に目を配ったとされる、あるいはそう考えられている類の「思想」は、どうも浅薄で拵えものくさいのだ。たとえば唯物史観など。

いずれにせよ、哲学と歴史の両者の始点、あるいは原点に人間が位置することは間違いがない。「〇〇とは何か」、「〇〇が何をしたか」、いずれの始点にも人間が位置するのである。


カッシーラーが「人間」というタイトルの書物を書いたのもそういう意味だろうと思われる。

こういう始点あるいは原点という考え方とは別に、哲学と歴史の接点は他にもある。その最たるものはもちろん、言葉と神話、そして科学。それらこそ、カッシーラーの主著と言われる「シンボル形式の哲学」の内容そのものである。




ところで最近読み始めた本に、過去に購入したままこれまで読まずにいた二冊の本がある。
一冊は:
『アースマインド』ポール・デヴェロー、ジョン・スティール、デヴィッド・クブリン著、青木日出夫訳、1991年

もう一冊は:
『新しい科学論』村上陽一郎著、ブルーバックス、1979年第1刷発行、1996年第10刷発行

前者は当時購入したものの、なぜか今までまったくと言っていいほど手に取ることもあまりなかった。いま読み始めると、少なくとも最初の方だけで判断する限り、物質とは異なる霊的なものの存在をはっきりと前提にしているようだ。「アースマインド」という以上、それは当然なことかもしれない。


後者は、昨年頃、古書店の店外売り場で見つけたもので、200円で購入。

村上陽一郎さんの本はかつて1冊ほど薄い本を購入したことはある。それよりも、今は昔、NHKラジオの音楽番組で長期にわたって週一回のレギュラー出演者だったので親しみを感じていた。しかしなぜか同じNHKの科学番組でお目にかかることが殆どなかったのは不思議である。今は読む機会もないが朝日新聞の文化面などの評論でもお目にかかったことがあるような記憶がある。ということで科学史関連では日本の代表的な研究者なのだろうという印象は持っていたが、それにしては一般的な知名度は高くなく、マスコミ関係でも引用が少ないのではないかという印象もあった。


この本の発行は1979年(今回古書で購入したのは1996年の第30刷)で、著者の40代にあたるので比較的初期の著作になる。序文では中学生にもわかるように心がけたが、そのことで不当に内容の水準を落としてはいないとのこと。以前に読んだ薄い本は、少々物足りないというか、どっちつかずという印象があったように記憶している。そちらは「中学生にも」というより、特に若年層向きに書かれていたのかもしれない。


とりあえず目下、この2冊を早く並行して読んでゆこうか。ちなみにいずれも「現代思想書」に該当とするのが自然だろう。


2012年6月6日水曜日

「LED電球の光がまっすぐに進む」と言われることと「鏡像問題」との奥深い関係


当ブログで先日、「LED電球の光が真っ直ぐに進むのは当たり前」という記事を書き、この場合に「真っ直ぐに進む」、あるいは「直進性が強い」といった表現が不適切であるという考えを述べました。LED電球の光に限らず、光そのものが直進するものと認められている現在の科学において言葉の一義的な使用を前提とするなら、LED電球の光に限って、あるいは従来の電球の光に比べて直進性が強いということは、あらゆる光が直進するという前提を否定することになるからです。現実には、真正面方向の明るさが強く、それに比べて側面方向が暗くなるということをこのように表現しているわけですが、これは明らかに言葉の意味が一義的でなければならないという科学的表現の原則に反しているわけです。

ただしかし、多くの人がこういう表現を違和感なく使っているということは、それなりに理由がありそうです。また、それ自体が興味深い問題であるとも言えるように思います。もちろんこういう言い方が不適切だという考えに変わりはありませんが。

そういう次第でこの問題をもう少し考えてみたのですが、それは本ブログや『ブログ・発見の「発見」』で取り上げてきた鏡像問題とも深いところで関わっているところの、科学と言葉に関する本質的な問題であることがわかってきたように思います。

ちょうど一昨日、かなり長期間にわたって少しづつ読み進んでいたエッカーマン著、「ゲーテとの対話」を読み終えたところなのですが、前日に読んだ終わり近くの箇所で、1831年6月20日に、ゲーテは次ようなことを語っています(この日の対話者はエッカーマンではなく、ジュネーブ出身で自然科学に造詣が深かったソレという名前の人物とのことです)。

「すべての言語は人間の手近な欲求や、人間の仕事や、人間の一般的な感情や直感から生じるものだよ。もしも今いっそう高次の人間が、自然の不思議な作用や支配について予感や認識を得るとすれば、彼に与えられた言語では、そういう人間的なことから完全に隔絶したものを表現するにはとても十分ではないのだ。それ特有の観察をみたすためには、魂の言語が自由自在に駆使できなければならないだろう。しかしながらそうすることができないので、異常な自然状況を観察しながらもたえず人間的な表現によるより仕方ないわけだ。そのときほとんどどんな場合でも舌足らずになり、その対象を引き下げるか、あるいはまったく傷つけてしまうか、台なしにしてしまうかなのさ」(山下肇訳)。

 「光が真っ直ぐに進む」という表現も、改めて考えてみれば実に人間的な表現であることがわかります。

先日の記事で述べたように、「LED電球の光が真っ直ぐに進む」と言われることをもっと正確に表現すれば、「LED電球の光は拡散性が小さく、側方に比べて前方に進む光量が多い」ということにでもなろうかと思いすが、人間について言えば、前に向かって、つまり前方に進むことがそのまま「真っ直ぐに進む」ことであり、直進することでもあるといっても違和感がないからです。

実際、光について語る場合も言葉の本質上、ゲーテの言うように、つねに人間から離れた表現を使うことはできないのでしょう。光が「進む」という表現自体、擬人的といっても差し支えないもののように思われます。普通、人間や動物にとって「進む」とは、さらに「直進する」とは、真っ直ぐ前に向かって前進することと同義語のように使われていると思います。その表現がそのまま、LED電球の光について使われているということでしょう。

「ゲーテとの対話」の先ほどの箇所で、ゲーテの言葉に続いて対話者のソレ氏が次のような考えを述べ、ゲーテに褒められています。

「・・・ドイツ語は・・・比喩の力を借りねばならぬとしましても、それでもかなり言わんとすることには近づけるでしょう。しかしフランス語は、私たちに比べて、大変不便です。フランス語では高次な自然現象を表現しようとすると、ふつう技術から得た比喩によってなされますから、すでに物質的になり、卑俗になってしまいますので、高次な観察にはまったく適しておりません。」
「なかなかうまくいいあてるね。」とゲーテは口をはさんだ、・・・・。

LED電球はまさに現代の高度技術の産物です。その仕組みも構造もそれ自体が人間が夜間の環境を照明する目的で開発された技術の産物にほかなりません。その目的に沿って作られた電球の構造には前、すなわち前方があり、側方があります。だいたい道具に限らず人間が作ったものには何らかの方向性があります。たいていのものには少なくとも前と後ろ、あるいは表裏は持っている。多くの場合はそれに加えて上下の方向性もあります。電球の場合、通常はねじがついていますから、左右の方向性を持っているといえるかもしれません。

その方向性を持った道具である電球の、前方あるいは真正面に向かう光量が多いことが人間が前に進むことの比喩、あるいは擬人化から、「LED電球の光はまっすぐに進む」と表現されることになるのではないかと思われます。

しかしこれは明らかに、いわゆる光の直進性の原則からは外れたおかしな表現です。LED電球の光に限って直進性が強いというのは、あらゆる光は直進するという原則とは矛盾することになります。自然科学における用語の一義性からいえば明らかにおかしい。したがってこの場合の用語法は科学的ではない、科学ではないということになります。

特に、「真っ直ぐに進む」という表現はまだ日常語的な、おおざっぱなニュアンスがありますが、「直進性が強い」といった、いかにも科学的で厳密な印象を与える表現は、明らかに人を誤った方向に向かわせるようなところがあるように思います。こういう表現を疑似科学的表現と言えるかもしれない。疑似-科学的-表現です。いわゆる「疑似科学」ではありません。

当然のことながら、LEDランプは高度技術の産物であり、人工の道具ですが、光そのものはそうではなく、純粋な自然そのものの最たるものでしょう。

この場合、たとえ「LED電球の」と限定されているにしても、なんとか工夫して「光」ではなく、「電球」を主語にした表現を工夫すべきではないかと考えます。人間が作ったもの、道具や機械はいわば人間の延長であり、分身ともいえます。その最たるものがコンピューターやロボットで、これらはもう、擬人的表現なしには説明することも、使うことも不可能になっています。つまり、道具を主語にするのであれば人間的な、あるいは擬人的な表現でも問題は少ないということです。

もちろん、自然物にも上下左右前後を持つものは沢山ある。火山は上に向かって噴火するし、噴煙を上げる。しかしそういう上下はすべて人間にとっての上下を基準に定められたものであり、火山という単位も一つの人間が切り取った認識の単位に他なりません。
そこで、上記、つまりあくまで人間の認識に基づいた基準であるという事実を踏まえたうえで自然界のもろもろの上下、前後、左右を考察してみることから何か興味深い展開がもたらされるような気もします。

たとえばいま例に挙げた火山は基本的に上下の構造を持っているといえます。それに対して河川は上下に加えて前後(流れ方向)と左右(左岸と右岸)をも基本的な要素として持つと言えそうです。

天体は、地球に対する方向性を別にすれば、基本的に方向性はないように見えますが、太陽系や銀河系になると上下の方向性が出てくるようにも思われます。あるいは一つの天体でも回転することで方向性が出てきそうです。

分子構造でも対掌体と呼ばれる右型と左型のセットがあることは有名な事実であるし、特に素粒子の世界で対称性が問題になっているらしいことは、数年前にノーベル賞を受賞した日本人研究者による「自発的対称性の破れ」で有名になっています。この辺りの問題になると敷居の高い高度な数学の問題になり、ここで私は立ち止まらずを得ないわけです。

気になることは、こういう問題が人間的なものとどのようにかかわっているのか?ということ。「鏡像問題」の次元では問題が人間的なもの、生命的なもの、認識論的なものと関わっていることが見えるように思えるのですが、素粒子論などになるとそれがまったく見えてこないということ。今のところ筆者には取り付く島がないというところでしょうか。