2016年4月27日水曜日

『ブッダは実在しない(島田裕已著、角川新書)』を読んで

この本のタイトルには確かに一定のインパクトはある。しかし一方で少々違和感を感じさせることも事実である。一つには、人物について「実在しない」という用語を、しかも現在形で語ることにも多少の違和感を感じるが、それ以上に、「ブッダ」という微妙な言葉が「実在しない」の主語として使用されている点にも違和感が伴う。

というの、歴史上の仏教の開祖とされる人物については一般の日本人は「お釈迦さま」という名前で馴染んできたし、今もそうである。一方のブッダは近代の学問的なカタカナ語であり一般の日本人はあまり使わないことばであるが、 ブッダが「仏さま」という言葉に相当することはだれでも気が付く。というのも「仏陀」という言葉も昔から知られているからである。いずれにせよ、仏(ホトケ)が固有名詞ではなく、この本で「ブッダ」について語られているように「悟った人」に類する意味を持っていることは一般の日本人にとっては常識であるといってもよいと思う。そういう点で、「ブッダは実在しない」という表現は、「実在」という用語自体の違和感と相まって、せっかくのインパクトが少々抑えられた感じがする。

この本が直接論証しようとしている事柄は、いわゆるお釈迦さま、仏教の歴史的な開祖としての個人が実在しなかったということである。だから、もっと分かりやすく即物的に言えば「お釈迦さまは実在した人物ではなかった」ということになるだろうか。

この本でカタカナ語の「ブッダ」が使われているのは、著者が宗教学、仏教学の学者であって、近代仏教学の文脈で語っているからに他ならない。というのも近代仏教学はパーリ語やサンスクリットの原典を解読することから始まっているからである。その原典を追う文脈ではお釈迦様をブッダという言葉で表さざるを得なかったのであろう。

同様の、ヨーロッパ経由で、従って近代仏教学経由で日本に入ってきたところのお釈迦様の名前に「ゴータマ・シッダルタ」という言い方がある。読んだことはないがドイツ文学『シッダルタ』というヘッセの作品があるのは有名である。ところが、本書の著者によると、「ゴータマ」も「シッダルタ」も、必ずしも固有名詞とは言えないらしい。またこの本には江戸時代以前にもそれに起源をもつ言葉が使用されていて、例えば歌舞伎の勧進帳に「クドンシャミ(漢字は省略)」という名前が使われていたり、江戸時代に読まれていたブッダの伝記で「悉達(シッダ)太子」という表現などもあり、江戸時代以前にお釈迦さまがどのように認知されていたか、興味深い。


 以上のように著者はパーリ語などの文献をたどることで仏教の開祖としての歴史的なただ一人のブッダは、複数のブッダ達から神話的に形成された象徴的な存在であると結論付けている。どうやらこれは著者が初めて主張する新しい知見のようである。もちろんいくつかの先行研究が挙げられているが、本書の主張は近代仏教学でも初めての主張であるらしい。著者は文献調査の結果として次のように述べている。「近代仏教学が、歴史上の存在としてのブッダの姿を十分に明らかにしたとは必ずしも言えないのである。」
 
確かに、 近代仏教学が確立されてからも、西洋でも日本でもお釈迦さま個人が実在したことが疑われたことはなさそうである。例えば、私がその昔読んだ小冊子で『日本人と日本文化(司馬遼太郎+ドナルド・キーン著)』という本があり、読みやすく面白い本だったのでいまだにいくつかの表現が記憶に残っているが、断片を拾うと、例えば空海を話題にした章で仏教について次のような談話があるので、ちょっと司馬遼太郎が語った断片を列挙してみよう。

「密教というのはあれは本当は、仏教ではなくバラモン教でしょう。お釈迦様が教主じゃありませんね。」
「仏教のようにお釈迦さんという一個の天才が土俗の中から一つの結晶体を取り出した・・・」
「親鸞も日蓮も、ほとんどお釈迦さんとは関係のない人ですね。極端にいえばお釈迦さんという世界性がどうであれ、・・・」

ここで語られている真言密教や鎌倉仏教についてはさておき、明らかに釈迦という個人が本来の仏教を作ったのだという、つまり今までの日本に栄えてきた様々な形の仏教とは異質の、釈迦という個人が生み出した明確に区別のできる本来の仏教というものが確実に存在することを前提として語られている。その意味で司馬遼太郎も近代仏教学の現在の成果の上に立っているともいえる。本書の著者はそのような近代仏教学で得られたとされる知見に変更を迫るものといえる。

学問的にはそういうことだが、しかし著者のこの新しい見解は、仏教に対して様々な新しいアプローチを提供するものではないだろうかと著者自身考えているようだし、私もそのように思う。

一つの重要なインパクトは、本書でも重要なテーマとして扱われているとおり、いわゆる大乗仏教と、小乗仏教といわれる上座部仏教との関係に対するものである。それは近代仏教学の影響もあって小乗仏教が本来の仏教、お釈迦さまの仏教に近いものと考えられているが、釈迦の存在が実在の個人ではなく神話的に形成されたものであるとすれば、いわゆる小乗仏教あるいは上座部仏教と言われている仏教も、実在したとされる仏教の開祖、あるいは始祖の教えにより忠実であるとは言えなくなるということで、著者も本書の中で、実際にその種の仏教(ちなみにテーラワーダ仏教とも呼ばれることを初めて知った。)が必ずしも原始仏教に最も近いとは言えないことを検証している。

著者はこういう点で仏教が持つキリスト教やイスラム教とは異なった、ユニークさを強調するとともに、小乗仏教に対する大乗仏教の優位性をも指摘しているように見える。そして、それには共感できるものがある。 

本書の第5章に、「日本で一番読まれている仏教の経典は『般若心経』」という小見出しがあり、そこで般若心経の成立について触れているが、そこで著者は、「般若心経は実は大乗仏教の立場からの小乗仏教批判の性格を持っている。というよりも、そこにこそ般若心経の本質があるともいえる。」と書いている。 

それにしても日本でだけ般若心経が特別に尊重され、一般にも広く読まれてきたということは興味深いである。本書によると、般若心経のサンスクリット語原典が伝わっているのは日本だけで、それは法隆寺にあるのだそうである。大乗仏教がこれだけ栄えてきた日本特有の事情についても興味がわいてくるというものだ。

最後に著者は次のように締めくくっている。「私たちは開かれた宗教としての仏教に、いささかの誇りをもってよいのではないだろうか。」 、なるほどそうかもしれないなと思う。

2015年12月29日火曜日

鏡像問題の意味と意義


鏡像問題はいまだに未解決であると か、定説がないとか言われる一方で、現に多くの説が存在し、少なくとも主張を続けているそれぞれの提唱者は、自説を取り下げない限り、自説こそが定説とな るべきか、定説に発展する基礎であると考えていることになる。また物理学者や数学者の中にはあえて問題にするほどのことでもないと考えている人も多いのではないだろうか。こういう状況下では新しい理論が提唱されたところで、その理論がどうであれ、現在の状況が変わることは難 しいのではないかという見方もできそうである。問題自体の重要性、意義についても様々な態度があるように思われる。

しかしながら、鏡像問題が追求するものそれ自体は、 一つの認知現象について、なぜそうなるのかという一つの説明に過ぎないといえるにしても、原因または理由が謎とみなされる限り、謎の中には未知の可能性があり、どのように多様な意味や重要な意義のある発見がもたらされるかわからないという期待も持てるのである。
 
どのような分野であれ、現在、定説あるいは正解とみなされている重要で価値の高い科学理論の多くに共通する要素は、そのもたらす意味範囲の広さと意義深さであり、知的または技術的生産性の大きさともいえるのではないだろうか。つまり、その理論からさらに多くの有意義な理論や証明が展開されたり、実用的、技術的な応用が可能になったりしているものだと思う。ニュートン力学にしても量子力学にしてもそのような観点から普遍的な理論として認められているのであろう。それは同時に体系的であるともいえる。

新しい理論が有意義であるとすれば、その理論自体がさらに大きく発展する可能性を秘めている場合もあるであろうし、既存の大きな体系に有意義に組み入れられ、その体系をより豊かにし、価値を高める場合もあるだろう。あるいはその両方の要素を持つ場合もあるかもしれない。そのような理論の多くはおそらく着想された当初から直感的に面白く思われ、興味深く感じられ、人を引き付けるのではないだろうか。

従来理論の不備や誤りを見つけること、さらに指摘された不備や誤りが従来理論の提唱者自身を含めて広く学界や一般から受け入れられるには様々な面で障害がある。そのような努力はもちろん、従来理論の有意義な部分を理解し、正当に評価することと共に、欠かせないことではある。しかし過剰にそのようなことに労力を費やすことは必ずしも効率的であるとは思えない。まずは金鉱石から金を取り出すことである。金以外に貴重なもの、可能的なものが含まれている場合があるにしてもそれらを選別することは後からでもできる。

逆に従来理論の不備と誤りを見つけることから考察を開始し、新しい解決を見出そうという行き方ではなかなか新しく有意義な発見に至ることは難しいのではないかと思う。ことに鏡像問題は数学の分野でよくあるように具体的に明確な形で与えられた問題を解くのではなく、問題自体が多面的にさまざまな表現で定式化されている。そのため、具体的に提起された一つの表現にしてもかなり多義的な解釈が可能な場合が多いのである。

仮に同じ程度の説得力しか持たない二つの理論があった場合、形式的な表現よりもそのもたらす意味の広汎さや意義深さを評価すべきではないかと思う。


私が鏡像問題にここまで関わることになった最初のきっかけは2007年末のウェブ新聞の科学欄記事であった。その記事では鏡像問題そのものよりもむしろそれが論争中であるということに焦点が当てられていたように記憶している。私自身は、その時、別に論争に参加したいと思ったわけではなかった。そういうことには縁がないと思っていた。ただ改めて鏡映反転の問題に興味を呼び起こされたのである。

一方、当時は偶然にも私が哲学者カッシーラーの著作(『シンボル形式の哲学』)を読み始めた頃だった。2008年から2009年にかけて遅々としながら日々、慣れない哲学書を覗き込むような気持で読み続けていた。

私が自ら鏡像問題に独自に取り込むことができるのではと考え始めたのはこの読書がきっかけである。具体的にはこの書の第二巻で鏡像問題に強力な光を当てることになると思われる記述に遭遇したのである。最初はこのブログや別のブログ記事でそれを示唆することで専門の研究者の目に留まればよいと思っていた程度だったが、そのうちに欲が出て自分自身で鏡像問題を体系化してみたいと思うようになった。それは私欲でもあったが、一方で義務であるとさえ思われたのである。

それが幾何学空間の等方性と知覚空間の異方性という異なった認知空間による説明である。『シンボル形式の哲学』では鏡像問題が扱われていたわけではなく、その個所のテーマも知覚空間そのものではなく「神話空間」であり、またマッハからの引用を元にした議論であったが、その個所をに行き当たり、読み進んだ時点で、すでにそれが鏡像問題の解答そのものであると思われたほどである。そして、ここに至って、改めて鏡像問題の重要性、奥深さについて認識を新たにさせられたともいえる。

私自身は昔、大学時代前後の頃だと思うが、いま鏡映反転と言われている現象について考えたことは記憶していた。そのときには一応解決に至ったと思い、それ以上は考えなかった。いま思い起こしてみると、その時考えたことは、鏡像とはつまるところ、こちら側の裏返しなのだ、という認識だったように記憶している。

その後30年以上も経過し、今回のように心理学や物理学の専門家によって重要な問題として議論されていることを初めて知った次第で、あらためて興味をかきたてられたのだが、個人的には学問的分野で研究職についているわけでもなく発表の場を持つわけでもなかったこともあり、ブログ記事で、例えば縦書きと横書きと認知機能との関係など、関連する事柄について気の付いたことを発表していた程度だった。

日本で行われていたその議論というのは、具体的には日本認知科学会で行われてきた討論会や誌上討論形式の論文集などになるわけで、鏡像問題のように実用性や技術的な目的からは程遠い問題に対する関心を失うことなく持ち続け、このような取り組みを続けてこられた学会と先生方の持続的な取り組みには極めて大きな意義があり、個人的にも敬意を抱いている。

それらが集約されたのが、日本認知学会学会誌の論文集『小特集―鏡映反転:「鏡の中では左右が反対に見えるのはなぜか?』に掲載された諸々の論文、掲載順に小亀淳先生、高野陽太郎先生、多幡達夫先生の諸論文であったのだろう。個人的には、この論文集の著者のお一方が私にこの議論を紹介してくださり、さらに議論の中に案内してくださることになった。その結果、具体的には昨年、学会にテクニカルレポートを提出できたことである。そのような幸運を享受できたことは誠に有難いことであったと考えている。

現在の科学は過度に技術志向的であるとか技術偏重であるとか批判されっる場合があり、私もそれに同感する考えを持っている。一方でゲーテが早くから指摘してきたように数学偏重と言う批判もあるように思える。これは形式偏重、形式主義的であるともいえ、つまるところ形式論理偏重ということになるのではないだろうか。その結果として意味あるいは概念そのものの分析、探求がおろそかになり、空虚な形式的な表現のみが物を言うようになる。

 鏡像問題はこのような現状の中で真に人間的で有意義で楽しい科学を取り戻すためのまたとないテーマではないか、と思えるのである。そこからは、自然科学と人文科学に共通する根底ともいえる意味論と認識論が見え始めてくるように思われるのである。



2015年12月17日木曜日

鏡像の意味論―その10―問題の分析


図1 鏡像認知の一部分としての自己鏡像認知と他者の鏡映反転


図2 自己鏡像の認知と他者の鏡映反転の組み合わせからなる自己鏡像の鏡映反転
 

【問題の純化と問題の分析(要素分析)】

問題の純化と分析は、科学的方法の基本事項ではないでしょうか。しかし鏡像問題では従来、どうもこの点がすっきりしていないようでです。

前々回「鏡像の意味論その10」では「問題の純化」と題してこの問題に取り組み、問題純化の1段階に成功したものと考えます。今回は表題のとおり、問題の1つの分析を行ってみたいと思います。


【鏡像認知問題と鏡像問題(鏡映反転)】

現在、鏡像認知問題といえば普通、自己鏡像の認知の問題とみなされ、英語の「mirror self-recognition」に相当するようです。では自己像に限らない文字通りの鏡像認知問題、英語にすると「mirror recognition」という問題が研究や論議されているかといえば、そういうことはなさそうです。英語でも「mirror self-recognition」という用語は学術用語として見つかりますすが、「mirror recognition」という用語はやはり日本語と同様に「mirror self-recognition」の簡略表現として使われているように見えます。この辺に一つの鍵が潜んでいるように思われます。

つまり、字義に即して考えると鏡映反転は鏡像認知の一部分であるとの印象を受けます。その鏡像認知の問題は事実上、自己鏡像の認知の問題とみなされています。したがって、鏡映反転の問題も自己鏡像認知の一部分であるならば、自己鏡像の認知の問題に限られることになります。そのため、鏡映反転の問題も自己鏡像の問題として考察されてきたのではないかと思うのです。

しかし、鏡像の認知は自己鏡像の認知に限って存在しているわけではないことは自明なことではないでしょうか?現実に鏡映反転の問題では自己以外の他者や文字などについても議論されています。鏡像認知の問題でも他者像の認知の問題あるいは自己と他者を含めた、あるいは共通する問題が存在するはずです。

このように、自己鏡像以外すなわち他者の鏡像を含めた「(あらゆる)鏡像認知」を認めれば、「自己鏡像の認知」は「(あらゆる)鏡像認知」の一部分であり、同時に「他者の鏡映反転」も「あらゆる鏡像認知」の一部分であることになります。最初の図1は、これを表しています。


【自己鏡像の鏡映反転は他者の鏡映反転問題と自己鏡像認知問題との2要素に分析できる】

鏡像問題を考察する場合、たいていは絵を描いて考察し、説明をします。絵を描かないまでも言葉で対象を表し、空間的なイメージを客観的に表現することが不可欠です。その場合、自己鏡像の鏡映反転を考察する場合でも観察者の姿とその鏡像を描くことが普通に行われています。それは絵に描かれた人物を観察者に見立てているわけですが、そこには観察者が見ている光景そのものは表現されていません。そのような図は描くことができるにしてもせいぜい両腕やメガネの枠あるいは無理をすれば眉や鼻の一部などを描けるでしょうが、観察者の全体像は不可能です。従って、自己鏡像の場合とはいいながら、他者として対象化された姿を考察しているわけで、客観的な対象としては他者であり、その他者の認知を推定しているにすぎません。描かれた図は当然、単なる図形であり、身体感覚はもとより、認知能力などあるはずもなく、図から説明できることはあくまで視覚的な情報にとどまります。つまり、視覚に関する限り、他者の鏡映反転を考察していることになります。

以上から、自己鏡像の鏡映反転問題は、他者の鏡映反転メカニズムと自己鏡像の認知の問題に分析できることがわかります。

鏡映反転の問題は視覚に関する限りの問題であり、基本的に他者の鏡映反転問題から出発すべきであり、他者の鏡映反転メカニズムが解明されれば鏡映反転の問題自体はそれで解決されたものとみなしてよいことになります。自己鏡像の鏡映反転の問題は、したがって、むしろ自己鏡像の認知問題と鏡映反転の問題の2つに分析できることになります。鏡映反転の問題が自己鏡像の認知問題に含まれるわけではないのです。これを表現したものが図2です。

以上のとおり、鏡映反転の問題は他者の鏡映反転の認知について考察すれば鏡映反転の問題自体としてはそれで十分であると言えます。


【鏡像問題(Mirror problem)と鏡映反転(Mirror inversion)】

用語として「鏡像問題」と「鏡映反転」の両方が使用されているわけですが、以上の考察から、「鏡像問題」は自己鏡像の鏡映反転を含めた問題とし、「鏡映反転」は「客観的に認知可能な鏡映反転」すなわち「他者の鏡映反転の認知」と定義することが適切ではないでしょうか。