2020年12月26日土曜日

いくつかの比較日本語論的トピックス ― その3― 最近のメディア空間でますます露わになったいくつかの日本語の欠点

最近のメディア空間と日常会話空間においてうんざりしていることのひとつは、『コロナ』という短い言葉が単語としても、またコロナ禍、ポストコロナ、といった熟語としても、無反省に氾濫している事です。まさに決壊するまで氾濫していると言っても良いと思います。そのままコロナと言う三文字で、やれコロナに感染した、コロナにかかった、コロナで死んだ、コロナの疑いがどうこう、等々、本来病気ともウィルスとも何の関係もないコロナという短い単語が新型コロナウィルス感染症との関連で安易に使われているのを見聞きして、個人的には本当にやり切れない気分の悪さを感じています。一つの言葉の意味が多様に広がったり、変化したり、良い意味の言葉が悪い意味の言葉に変化したりと言うことはどの言語でもよくあることで、ある意味、抵抗しても仕方のないことかもしれませんが、しかしコロナという言葉の場合、本来的ないくつかの基本的な意味は厳然として存在しているわけだし、英語の辞書にはCoronaという女性の名前も載っているくらい、もともと言葉のイメージとしては美しい言葉なんですけどね。まあ言葉には当然、良い意味の言葉もあれば悪い意味の言葉もある。それぞれの言葉自体に良いも悪いもないが、美しさとか、イメージといったものはある。そういうイメージを壊すような使い方についても云えると思いますが、安易に、よく考えもせず、あるいは作為的に意味を転用したり、拡大したりすることは、言葉や言語そのものの冒涜につながるような気さえします。言葉と言う人類の宝物は大切に、慎重に取り扱わないと、そのうち言葉を奪われてしまうということにもなりかねません。

かつてのSARSが流行した際、これは日本ではあまり深刻な問題にはならなかったようですが、改めて調べてみると、SARSとは「重症急性呼吸器症候群」の英語の短縮形であることがわかります。またそれ以前にMARSというのがあり、これは「中東呼吸器症候群」の英語短縮形であり、病原体の名前ではなく症状の名前で呼ばれていたことがわかります。それが今回の新型コロナの場合は症状ではなくコロナウィルスという、病原体の名前で呼ばれているわけです。しかしコロナウィルスと言うのは厳密にはコロナウィルス科という集合的な名前で、これにはSARSやMARSやその他の「普通の風邪」も含まれるみたいですね。ウィキペディアをちょっと見ただけでも、それらの分類は恐ろしく複雑で多様で、とても素人の手におえるようなものではないことがわかります。

ここで専門的に深入りすることは無理で、仮にそうしても収拾がつかなくなるだけなので、本題の言葉の問題という観点に立ち返ってみれば、SARSやMARSのように症候群で識別することの意味と、病原体名で識別することは明らかに意味が違っているのであって、どちらが正しいかとか優れているかという以前にその違いを意識したうえで言葉を使用すべきだと思うのです。

いずれにしても今回の新型コロナウィルスをコロナウィルスというのは、少なくとも「種」としての名前を「科」としての名前で呼んでいるわけで、そのことだけでも大幅に曖昧さが加わっていますが、さらに「コロナ」という、単にウィルスの形状を表現するためだけに使われているだけで、それ自体がウィルスとも病気とも何の関係もない言葉で総称され、様々な文脈とニュアンスで使われまくっていることが放置されてよいものか?と日々憤りを感じている次第です。

この問題に関連して先般、英語の略語、特にアクロニムのデメリットについて「PCR」を例にとって考えて見ましたが、一方で英語のアクロニムには日本語における略語にはないメリットもあり、日本語の欠点部分にも関係しているので、まずそれについて考えて見たいと思います。先般の記事のように日本語では表意文字を使うことでやたらに英語のようなアクロニムを避けることができるとしても、それでもやはり複雑過ぎる概念は短縮形に頼らざるを得ないわけで、英語のような表音文字のアクロニムにはそれなりのメリットがあると考えざるを得ません。今回の新型コロナウィルスの場合はCOVID-19ですが、こういう短縮形の作り方は表意文字の場合は無理で、強いて日本語に訳そうとすればやはり表意文字を使用して「コヴィッド19」とか「コビッド19」とかになるでしょうか。しかし日本では政府権威筋でもマスコミでも、ジャーナリストでも、こういう表現を使う人はいることはいてもわずかで、殆どは「コロナ」で済ませてしまっています。これは多くの外国でもそうではないかと思います。これは1つには「コロナ」という言葉の発音が持つ語呂のよさといったものも関係しているのでしょう。ということはまた、「コロナ禍」とか、「ポストコロナ」、とか「コロナに負けない」といった造語や表現を作りやすいという面もあると思われます。しかしだからと言ってそういう造語を作ることが良い結果をもたらすかと言えばそうでもなく、むしろ安易な造語が行われやすいという、マイナス面も大きいと思います。

もう一つ改めて露わになった日本語の欠点は、日本語に単数と複数の区別がないことです。この点は古くから指摘されていることですが、中にはそれほどの欠点ではないという考えかたも結構あるようです。たしかに必要に応じてそれなりに複数の表現はできるわけですが、それでもあえて単数か複数かを区別せずに曖昧さを残すために使うこともできるわけです。特に最近のメディア空間で「コロナ」とともに頻繁に使われている「専門家」という言葉の使い方で、この欠陥が改めて露わになっているように思います。総理大臣以下の権威筋のみならず有名ジャーナリストも「専門家がこういっているから」云々、という言い方で公衆に向けて説得姿勢で語りかけるのが日常的になっています。単数形と複数形を区別せざるを得ない英語ではこういうルーズな表現による曖昧化はずっとしにくくなります。たとえば不定冠詞の「a」以外にも「some」のような限定詞や数詞なども付けやすくなります。日本語で表現するとすれば、「一部の専門家」とか「特定の専門家」とか、もっと具体的に専門家を特定することも視野に入ってくるわけです。単純な複数形でも曖昧さは残りますが、それでも専門家のすべてを表すわけではないので、単複の区別がないよりはずっと良いと思います。


最初のコロナとい言葉の問題にもどります。いまや現下の社会状況に言及する際にコロナという言葉を使わないでは済まないようになってしまったようです。これはいわば言葉の土俵でありこういう土俵は自然にできる場合もあるかもしれませんが、やはり現代ではマスメディアが、意図的であるか無意識的であるかに関わらず、作りだしていると言えます。こういう土俵は便利ではあり、中に入ることで楽に思考や言論ができるようになります。しかしそれは言語空間を狭めてしまうものであって、深められた思考による自由な言論を妨げるものです。思考や言論はゲームやスポーツではなく、もちろん理想的には闘いであってはならない。

では日本語は上記の点、つまり狭隘な言葉の土俵のようなものが発生しやすく作られやすいのではないだろうか、特に英語と比べてどうだろうかという問題意識が生じてきます。これについては今すぐどうこうは言えませんが、表意文字の言葉、単語が主体である場合はそういう傾向が生じやすいのではないか?という予感がしないでもありません。今回は以上で。



2020年11月10日火曜日

感染者と言う言葉の独り歩き(その2)― 感染者(数)という表現の独走態勢

 前回、もう数か月前ですが、この問題を取り上げたときはシニフィアンとシニフィエの組合せといえる見方から、平たく言えば、意味するものから離れた単なる言葉だけが拡散している様子について述べたわけですが、今回は別の観点から、つまり表題のように、感染者(数)、感染確認者(数)、感染率、陽性者、陽性率、PCR検査陽性者、等々、様々な関連用語の中で、飛び抜けて頻繁に使われている感染者という表現について考えて見たいと思います。

これらの言葉は今回の新型コロナ騒ぎにおいて人的統計資料として各種広報やマスコミで連日使われているわけですが、このような人的統計の用語として「~数」という表現がこれほどまで頻繁に毎日使われたことがこれまであったでしょうか?普通は「~率」ではないでしょうか?端的に他の例を挙げてみると、例えば失業者の場合、真っ先に失業者数がそのまま報告されることってあまりないと思いませんか?普通はまず失業率が発表されてきたはずです。失業者数が発表される場合はまず失業率が発表された後、その具体的で詳細な資料として発表される場合に限られていたように思います。今回の新型コロナ騒ぎの広報と報道においてはこれが完全に逆転していますね。「感染者」と「感染者数」の頻出には、大抵の人は、例え無意識的にでもこれに違和感を感じているのではないかと思います。これは独り歩きと言うより独走、この場合は二人三脚における独走と例えられるしれませんね。

まずこの「感染者」と「感染者数」を比較してみると、この二つは同じ意味で使われる場合が多いようです。このように、数えられる名詞は普通、日本語でも英語でも数量と同じ意味で使われることが多いようです。英語の場合は複数形が使えるので、なおさらそういうケースが多いように思います。例えば、個人的に畜産関係の翻訳をする機会がよくあるのですが、表などで豚の頭数を表す場合、列の見出しはは単に「Pigs」となっているケースがよくあります。こういう言葉の用法は、物質名詞の場合は少ないように思います。例えば水量を表すのに「Water」と表現することはあまりないでしょう。日本語では普通、水量と表現しますが、英語の場合はリットルとかの単位を見出しにするのが普通のように思います。ですからこれはあらゆる名詞に通用するわけではないので、言葉の用法としては厳密さに欠ける使い方であると言えます。「感染者」の場合も、例えば記事や一覧表の見出しなどで単に「感染者」と書かれているのと「感染者数」と書かれているのでは少し印象が異なってきます。例えば、「感染者」の場合は「新たな感染者」という表現で使われる場合が多いようです。そうなるとこれまで感染していなかった人が新たに感染したかのような印象を受けます。「感染者数」の場合はすでにある状態の確認という印象で、新たに感染した人という印象は薄らぎます。「感染確認者(数)」となればさらにそういう印象は薄らぎ、既存の感染者が新規に確認されたという印象に近づきます。要するに新たな感染者というだけでは潜在的感染者の存在が捨象されていると言えます。これは「感染者」の定義や「PCR検査」「患者」等との関係とはまた別の問題です。

次に掘り下げて検討すべきは「~数」と「~率」の違いですが、一言でいって「~率」の場合は分母となる集団が空間的にも時間的にも意識されるという違いがあります。具体的に「感染者数」で言えば、上述のように潜在的感染者の存在が捨象されていることに加え、分母となる集団もあいまいなまま残されています。たとえ、東京の特定日における感染者と言われたところで、その日に何らかの検査で判明した人数である可能性もあれば、累計である可能性もある。その日に何らかの検査で判明した人数であるならば、その日以前に判明している人数が今はどうなっているのかという問題が残されることになります。累計であるならば、感染状態から非感染状態に移行した人数は無視されていることになります。

このように感染者ないし感染者数という表現では極めて多くの情報がうやむやのうちに葬られることになり、そこから感染者と言う概念自体の曖昧さにも疑念を持たざるを得なくなります

これは交通事故の死者と比べてみるとはっきりします。交通事故は、普通、東京都などの自治体単位で、発生率ではなく死亡者数で公表されますが、これを単に「死者」と言えばどういうことになるでしょうか? 当然、東京都に限っても、到底数えられるような数値ではありません。つまり、この場合は死者数というよりも当日の死亡事故の件数と言うべき数値でしょう。この考え方を当今の感染者数に適用してみると、感染者数というのは当日のPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)検査陽性者である可能性が濃厚ですが、それが示されていない以上、そう言い換えることもできないわけです。これが、「感染者」という言葉の曖昧さであり、端的に言って意味不明と言わざるを得ません。(以上、青字部分を11月11日追記)

今回の論議では感染の意味とかPCRの意味についての論議は度外視しています。これらについては本ブログの最近記事や別ブログ『日々と人生の宝物』の最近の記事で考えを述べているとおりです。

2020年9月29日火曜日

略語、特にアクロニムの多用による重大な弊害について、「PCR検査」を例に考える ― いくつかの比較日本語論的トピックス (その2)― 日本語から見た英語の無生物主語と擬人化

英語の翻訳という仕事を続けるうえで煩わしい問題の1つは、増加する一方のアクロニム(頭字語)の扱いである。アクロニムは翻訳せずに済む場合もあるが、いつもそれで押し通すわけにも行かない。そのためには、表現方法の問題はさておき、まず意味が分からなければ話にならない。今では各種の辞書も充実し、大抵の場合はウェブ検索で何とかなるが、それでもわからない場合もなくはない。

アクロニムというものは本来、可能な限り避けるべきものであろう。英語の原文にもいろいろあり、高い信用度が要求されるような書類の場合は、注釈としてアクロニムのリストが付けられているのが普通である。また科学雑誌で英語論文の投稿規定などをみると、基本的にアクロニムは使うべきではないとされ、使う場合は当然、定義を明確に付記すべきことが要求されている。しかし近年の技術用語、ビジネス用語、とくに報道、マスコミ用語ではこの種のアクロニムは増殖する一方であり、その使い方も恣意的であり、論理的でもなく、ときは無責任極まりない使われ方をされている場合も多い。報道、ジャーナリズムはお笑い番組でも仲間内のお喋りでもないはずである。

例えば、「AI」の場合、文章記事ばかりではなくテレビやラジオ放送でも大抵の場合は日本語で「人工知能」という言い換えが追加されるのだが、一方、最近の「PCR検査」の場合はどうだろうか。PCRの場合は殆ど初めて聞かされた時から今に至るまで、少なくとも通常のニュース番組で何らかの説明が付加されたことは聞いたことがない。私の記憶では、この言葉が頻繁に使われだしたのは政府広報などよりもむしろジャーナリストや進歩的文化人と言った人たち、あるいはツイッターの発信者たちの発言からであったような印象がある。私は当初からこの略語の使用に不信感を持っていた。というのは、この略語を使う人たちの多くがしきりにもっとCR検査をせよ、拡大せよとまくし立てるのだが、一般人がそれまで聞いたこともないPCR検査なるものについていきなりどうのこうのと言われても困るのである。それが政府や行政を批判する文脈で発言されていれば、PCRの意味など理解されずとも、行政に不満を持つ多くの人々の支持を得やすいのは確かではある。しかしそれは無責任ではないか。それで私は最初からそういう意見に耳を貸すつもりはなく、あえて急いでPCRの意味を調べることは怠っていた。

一方、逆にオーソリティの側でしきりに使われはじめ、いまでもある意味では基本用語として頻繁に使われているのは略語ではないが「感染者」という言葉である。この言葉に対する不信感についてはすでに本ブログで記事にしている。こちらの方は一応「感染者」という字義通りの意味は、分かるのだが、そもそも感染者というのはどういう状態の人のことを言うのか、どうやって判定するのかが全く分からないのである。つまりこの場合は新型コロナウィルスの感染者と言う、字義通りの意味はあるが、そういうものは一般人が見て判別できるようなものではないということである。つまり新型コロナウィルス感染という状態自体が眼に見えるわけでも、耳で聞こえるわけでも、触って分かる訳でもないからである。という訳でこちらは、略語とは少々レベルが異なるが、やはり意味が隠されている言葉であると言えるだろう。しかしなまじ固有の意味を持つ単語が使われているだけになお問題は複雑である。

その後、PCR検査について、一般人にも分かりやすく説明をしてくれるHPやユーチューブチャンネルに遭遇して、私はそれが病原体を検出するものではないことを知るに至って、この検査の必要性を喧伝する人たちに対する不信感はいよいよ高まる一方になったのである。

その後数日前になってようやくPCRそのものについてネット検索した見たところ、PCRとはpolymerase chain reactionの略であり、日本語では「ポリメラーゼ連鎖反応」であることを知るに至った次第である。英語では25文字が3文字に短縮されるのだから随分と効率的であるに違いないが、日本語による本来の記述では10文字であり、しかもPCRでは本来の日本語の記述を全く反映できていない。

確かに「ポリメラーゼ連鎖反応検査」と言っても素人には何のことか判らないことは確かであるが、もともと概念自体が難しいのだから他に言いようがない。では「ポリメラーゼ検査」と略してみればどうだろうか。英語でもこういう略し方はできる。ただし、この検査は1つの技術であるので、概念的な正確さが格段に落ちることは確かだろう。しかし素人向けにはそれでも良いのではないか。ポリメラーゼが何を意味するかは分からなくとも、少なくともそれが化学物質の名前であって、新型コロナウィルスの名前ではないことも推察できる。もちろん新型コロナウィルスとどう関係があるのかまでは分からないが、多少とも知識欲のある人であれば、この何でも簡単にネット検索ができる現在、すぐにでも調べてみる意欲を持つことができるであろう。PCRでは何のことか全くわからないのである。私自身、数日前まで調べる気にもならなかったのである。同時に喧伝者を信用する気にもならなかった。

アクロニムは本来、言葉を使う際の効率上、やむを得ずに発生してきたものだと思うがやはり一種の暗号のようなものであり、悪用と言っては語弊があるが、恣意的な目的で利用されやすいことにはことさら注意すべきだろう。特に科学技術や学術的に使われることが多いの問題だと思う。

哲学者カッシーラーは科学について、科学は真理に近づくためにも使われるが真理を覆い隠すためにも使われると言っている。言葉についても同じことが言える。アクロニムはこの点で余程注意が必要で、特にジャーナリストや報道関係者は慎重に使用すべきだと思う。政治家に至ってはもちろんである。信用にかかわると思うべきであろう。一方一般人の立場からは、やたらにアクロニムを多用するジャーナリストや政治家や文化人に対しては、悪意や善意とは関係なく1つの信用と警戒の尺度になるともいえる。

(以下30日追記)

他方、別の視点、というより、もっと比較日本語論的な視点で見れば、ここで図らずも漢字熟語やカタカナ語を平仮名に混在させられる日本語のメリットが改めて明らかになっている事にも注目すべきだろう。漢字熟語はもちろん、カタカナ英語にしても文字数から言えばアルファベット表記よりも短くなっている。文字の大きさから言えばどうしてもアルファベットよりも大きくなってしまうので、スペース的にはそれほど節約できるとは限らないけれども、読みやすさの点でも漢字熟語やカタカナを併用する日本語のメリット、英語などのヨーロッパ言語ではアクロニムに頼りがちになるような長い単語を短く、視覚的にも表現できる漢字カタカナ混り日本語のメリットを生かさない手はないのではないか。こういう日本語のメリットについては夙に多くの見識家によって繰り返し主張され紹介されてきたはずであるけれども、なかなか主流派の意見とはならならず、英語のメリットの方が強調される流れは相変わらず強く、日本語自体も英語の影響を強く受け続けている。もちろん英語の影響を受けることに利点がないとは言えないが、少なくとも安易にアクロニムに頼ることは悪影響の一つといえるだろう。もちろんすべてとは言わないが。

というわけで、PCR検査は当面、略語を使わずに日本語で「ポリメラーゼ連鎖反応検査」と表現するのが良いと私は考える。くだけたところでは「ポリメラーゼ検査」でもよいのではないかと思う。