2022年8月20日土曜日

政治思想と宗教と科学、宗教と神秘主義と科学(共産主義、反共主義と宗教、神秘主義)― その3 ―キリスト教文明史における ゲーテの思想

 近代科学はキリスト教文明の下でのみ成立可能であったとは比較的よく聞く言説である。その根拠についてはどうであれ、事実としてそうであったことは一般人の目から見ても確かである。科学一般は古代ギリシャ文明にもあったし、古代中国文明にも古代インド文明にもあったといわれるし、日本を含めて他にもなかったとは言えない。それゆえここでは科学一般ではなく近代科学が問題であることがわかる。近代科学を科学一般と区別するものは、非常に難しい問題ではあるけれども、一言で言って、後付けで考えた結果としても、表現形式と方法論的な自覚とでもいえるものだと思う。その意味で、事実として近代科学が西欧のキリスト教文明圏で成立したことは一般常識でもある。

このキリスト教文明と近代科学の母体が西欧文明そのものであることは即いえる。しかし西欧文明にそれら以外の思想的な流れがなかったと言えないことはもちろんである。その意味でゲーテに注目することには意義があるように思われる。というのも、ゲーテはキリスト教文明の中で近代科学が成立し始めたころに活躍したけれども、キリスト教にも近代科学にも深い関心を持ちながらも、どちらにも距離をおいて批判的な目を持っていたからである。とはいえゲーテは自らを科学者と考えていたという人もいる。少なくとも当時の本流ともいえる近代精密科学の発展方向に対しては批判的で危惧をさえ抱いていたことはいくつもの著作から明らかである。端的に言えば、キリスト教思想と近代科学思想を含む一つの流れとは別の流れの中に身を置いていた、といえるように思われる。

私の一般人としての感性でというか見方で、ゲーテの思想を1つの系譜の中にみるなら、それは神秘主義の系譜に属すといえるのではないかと思う。私はゲーテに詳しいわけでは全くないし、関わりのある諸々について専門的な研究者としての知識はないが、大雑把な一般読者、一般教養レベルでもその程度の考察はできるのではないかと思っている。私が最初に読んだゲーテのまとまった作品は、遅い学生時代に読んだウィルヘルム・マイスターの徒弟時代と遍歴時代であるが、このどちらかを一読するだけでもゲーテを神秘主義者であると想定することは可能である。その後相当の期間が過ぎ、つい最近になって、一昨年から読み始めた『詩と真実』を読了した。この書でゲーテは第一章の書き出しから自らの誕生を占星術における星位から書き始めているのをみて私は少々驚いた。このとき私はもちろん神秘主義一般に興味はあったが、占星術のことはあまり考える機会はなかったからである。しかし、ゲーテが神秘主義者であることを思えば自然なことともいえる。

 『詩と真実』によれば、ゲーテは若いころ母親とその女友達の女性たちと共に、神秘主義とされる著作群の研究を続けていたり、錬金術や化学の研究も行っていたことが書かれている。ちょうどそのころ、重い病気に罹って死ぬかと思われるほど重篤になったとき、ある医者が持っていた「万能の霊薬」なるものによって救われたことが書かれている。そしてそれが塩類であって、アルカリ性の味がしたとも書いている。このようにゲーテは当時の医学にも化学にも通じ、学者たちと交流し、地質学や生物学への貢献も行っている。

このようにゲーテは科学の諸分野において積極的な研究を行っていると同時に、このときすでに100年以上も前に偉大な天文学者達が完全に切り捨てた占星術や 当時すでに化学に移行していたところの以前の錬金術も並行して研究し、同時に神秘思想の研究も行っていた。ゲーテの作品や業績に詳しい人であればもっといろいろな面を指摘できると思われるが、このようにゲーテはキリスト教文化の中で独自に近代科学が確立して発達を続ける中で何かキリスト教文化とは別の系譜というか脈絡の中で、キリスト教については横からというか、むしろ客観的に眺めて関心を持ちながら諸々の科学研究も行い、神秘思想の研究も行っていた。そういうゲーテの思想を1つの主義として代表させるなら、それは神秘主義というほかはないと思うのである。

一つのまとめとして次のような表現が可能であると思われる。

キリスト教文明の中で近代科学が確立し、その近代科学のみが独立して世界に広まり拡大し続けてきたが、全体としての科学はその近代科学的部分のみで成り立っているわけではない。西欧文明の中に限っても、キリスト教文明の外側に、少なくともその一部として神秘主義の伝統があり、あるいは神秘主義を含む伝統があり、全体としての科学の何らかの構成要素を占めている。現在に至るまではその近代科学的な特徴のみが注目され、拡大され続けてきたともいえるのではないか。

今回はここまでを一つの区切りとしておきたい。


2022年7月20日水曜日

政治思想と宗教と科学、宗教と神秘主義と科学(共産主義、反共主義と宗教、神秘主義)― その2

 ― 前回に続けて―

ここでもう一度、改めて科学主義と、科学を尊重すること、について考えてみたい。例えば、ニュートン力学は現在、絶対的な真理とはみなされていないが、少なくとも日常レベルでは絶対的な権威があるといえる。それは現実的な日常レベルではそれに代わる理論がないからである。つまりニュートン力学が成立するまでそれに相当するものはなかったし、工学的にも有効で生産活動に寄与することにもなったからである。一方、CO2温暖化説はどうだろうか?これは言うまでもなく地球の平均気温上昇の主要原因をCO2を始めとする温室効果ガスの増加に求めるという理論であるが、こちらの方はニュートン力学とは違い、他にもいろいろ説明理論がある。歴史的に、あるいは事実上の地球温暖化自体がすでに終わっている可能性があるが、温暖化のメカニズム自体にいろいろな要因が想定できる。その主要原因として太陽活動主因説こそが、CO2主因説に対立する重要な理論である。であるからこの場合、無条件に一方の学説を妄信することは、科学を尊重することとは言えない。ただしCO2主因説も科学的な形式と方法論をとっているとは言える。ここでこれ以上この問題を掘り下げる暇はないが、少なくとも現在の太陽活動主因説は、現在のCO2主因説に比べて遥かに包括的(CO2温室効果をも含めて)な考察に基づいた優れた理論であって、より真実に近いと考えられるのである。少なくとも現在のCO2主因説はこの比較を厳密に行っていないし、高度な太陽活動主因説では重要な役割を担っている化学熱力学の関与についても無知であるか、無視している。両者の優劣を考えた場合、CO2主因説は他方に比べて格段に劣っているのである。

以上の点で、共産主義思想と制度あるいはその体現者たちはいずれも、科学主義的であるとはいえるが、科学を尊重しているとも重視しているとも考えられない。これはもちろん現実の政治や共産主義以外の政治理念の体現者の大半にとっても言えることではある。ただし共産主義は理念として科学的であること、さらに言えば科学を尊重することを建前としているので、この点では他の政治思想や党派より深刻に受け止める必要があると思うのである。一言でいえば現在の共産主義は科学主義的ではあるが、科学の運用においても科学的真理の追究においてもご都合主義的であると言わざるを得ない。このご都合主義は科学以外のもの、端的に言って宗教に対しても適用されうる。中国共産党は宗教弾圧を行ってきたことで有名だが、日本共産党の場合は明確にあらゆる宗教を否定するわけではなく、一部の宗教に対してはむしろ融和的であるともいえる。キリスト教徒で日本共産党を支持する人たちも多いように思われる。では、現実の共産党やそういう組織・団体はどういう宗教を敵視しているのだろうか。これは、一言で言って共産主義を敵視し攻撃する宗教を敵視しているということになろう。というのは、宗教の側でも反共を趣旨とする宗教とそうでもない宗教があることが反映している。

だいたい伝統的な宗教はすべて唯物主義を否定し、共産主義をも否定することに例外はないように思われるが、特に反共を前面に掲げて活動するようなことは大半の宗教団体はあまりないように思われる。ただし、排他的と言われる宗教、つまり他の宗教や宗派に非寛容で全否定するような宗教や宗派は共産主義に対しても当然非寛容になる。この種の宗教や宗派は一神教か多神教かという分け方では、一神教である、ということになる。

ということで、一般に政治思想と宗教との関係で対立関係を生じるのは、宗教側についていえば、一神教的な宗教である場合が多いということはできそうである。これは一つの結論であるとともに、以後の考察において一つの前提事項として、重要な考えであろう。少なくとも理念的にはそう言える。

2022年7月3日日曜日

政治思想と宗教と科学、宗教と神秘主義と科学(共産主義、反共主義と宗教、神秘主義)― その1

 かつて、というか私の若いころの話だが、「反共」、あるいは「反共主義」という言葉の意味するところはそれだけで印象が悪い内容であったように思う。少なくとも私にとって印象の悪い言葉であった。もちろんそれには当時の社会一般の常識的な印象を反映していたはずである。共産主義そのものに同調する人は多くはないものの、日本共産党は安定して勢力を伸ばし続け、極端な反共主義者は共産主義者以上に嫌われるような風潮があったように思う。私の場合、そんな深くも強力にでもないが外面的な共産主義の影響を受け、少なくともあこがれる程度までは影響を受けていたとはいえる。

ソ連崩壊後はソ連や東欧諸国で実際に効力を持っていた共産主義や依然として共産主義国家であった中国の共産党も含めて共産主義や共産主義政党に対する反感は増大し、理念としての共産主義の権威性も大幅に低下した印象がある。しかしだからと言って、反共や反共主義に対する印象が向上したとか、悪い印象がなくなったかといえばそうでもない。むしろ反共や反共主義という概念自体が希薄になって、この言葉が使われることも少なくなってきたのではないかと思われる。

共産主義体制や理念としての共産主義も事実上破綻したにもかかわらず、反共産主義が盛り返すようには見えないのはなぜなのか?私は、それは宗教と科学主義の問題が絡んでいるように思われる。というのは、共産主義は一応、少なくとも形式的には反宗教であり、逆方向から言えば多くの宗教は反共産主義であった。つまり共産主義は唯物主義であり、科学主義であることが建前であったということである。

言い換えると、理念としての共産主義は科学主義であるという点で、今でも一部の知識人、常識人の心をとらえ続けていると思うのである。反共主義は反科学主義であり、宗教的である場合が多いという点で、一部の知識人や一般人にもに忌避される傾向は今でも持続しているといえる。

要するに、共産主義と反共産主義との対立関係が科学主義と宗教との対立を含意しているともいえようか?もっと単純に言い切ってしまえば、科学主義と宗教との対立関係を置き換えているともいえるのである。そこで科学主義と宗教との対立関係を分析する必要が生じるのであるが、これはまあ難しい問題である。

なによりも、その前に、現実の共産主義団体や反共主義団体が、各々それらの理念を体現しているかどうかはまた別の問題としてあることである。こういう問題は理念だけを取り出して考察することはまず不可能だから厄介なのである。

一方現実の科学上の諸問題で科学を尊重することと科学主義とはまた別物であることも考慮しなければならない。例えば、端的に言えば特にCO2温暖化説において日本共産党を含めて共産主義的勢力の科学無視、あるいは科学的ないい加減さについては、今はもうあきれるばかりである。一般的に言えば形式的に科学的な表現を使用するだけに過ぎない場合や一部の科学者の所説を盲目的に支持するに過ぎないことが多いのである。いわば科学は内容よりもむしろ形式と方法であって、この形式と方法でカバーできる内容というのは限られているともいえるし、適した対象もあれば不適切な対象もあり、人間の知的活動の分野としては極めて限定的なものであることが次第に明らかになってきたのが現在ではないかと思う。その点で、いまや政治思想の拠り所を科学に求めたり、逆に科学の拠り所を政治思想に求めたりすることは、時代遅れになりつつあるのではないかと思うのである。

公開日2022年7月3日

修正および加筆2022年7月6日