2009年2月14日土曜日

カッシーラー シンボル形式の哲学[2]神話的思考、を読んで

昨日、何とかこの2巻目を読み終わった。読み始めたとき、第一巻の「言語」よりは読みやすそうだと思ったのだが、その期待は裏切られた。とにかく1巻目同様難しかったし、続いて読み始めた第三巻は更に難しいかもしれない。この本よりももっと有名で、かつもっと読みやすい哲学書もあるかも知れない。もっと多くの人が読み、世界に影響を与えてきた、いわゆる必読書で、これよりも読みやすいものもあるかも知れない。しかしそれにも関わらずこの本が私に合っている、相性が良いという気がするのである。難しく読みづらいけれども、原著者をも翻訳者をも非難する気にもなれない。とにかく読み進むしかない。

この2巻目を読みながら絶えず気になることは1巻目の「言語」とこの間の「神話」との関係である。どちらもシンボル形式ということで、1種の並列あるいは平行関係のように扱われているわけだが、言語と神話とが並列的に扱われるということはどういうことなのかという、疑問が解決されないままに読み進まなければならないことが1種の負担になる。それに対する著者の、一種の答が最後章に現れる。「むろん言語と宗教の種的な相違を何らかの根源的統一性のうちに解消することなど問題になり得ない」、「シンボル形式の哲学の問いは、共通の起源にではなく、共通の構造にかかわるものだからである。」、要するに構造ということのようだ。

この、巻の最終章で、代表的な宗教の幾つかが比較して扱われる。ユダヤ教、ゾロアスター教、仏教、そしてキリスト教。この部分の各宗教についての説明は、基礎的な部分での難しさがあるものの、表面上、簡潔で説得力がある。仏教についても、なるほどと思わせられるものがある。しかしやはり最後のキリスト教に関する部分が多くを占め、強い問題意識で扱われている。この箇所は現在のキリスト教の動きを考える上でも非常に重要な論点を整理した形で提起している。

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