2014年11月24日月曜日

鏡像の意味論 ― その2 ― 用語の意味から考える-その1

+今回はまず次の二つの用語について考えてみたいと思います。:

1.比較

2.変換


初めて専門の学術誌で鏡像問題の論文集に触れたとき、最初から用語と語法の問題でかなりの違和感と抵抗を覚えました。特に使い方が気になった用語のひとつは「変換」という単語です。単に用語の適切さというのではなく、考え方、方法論の問題とも思われました。と言うのも、ある論文では「何々変換」という風に、理論の名称そのものとしてこの用語を使っていたのに対し、別の論文では変換と言う用語をそれほど、キーワードのようには使っていないのですが、やはり、そういう論文でも変換または転換でもいいのですが、そういう変化ないしは変更の意味を持つ概念が主役になっているという印象では共通するところがありました。一方、後になって気づいたことですが、「比較」という用語があまり重要な概念として使用されていないことも気になっていたと言えます。今にして言えることではありますが、私自身にしてみれば鏡像問題はつまるところ二つの形象を比較することに他ならないと思えるし、比較のプロセスを分析することこそ重要なのではと思われるのですが、どの論文でも「比較」の概念が等閑視されていた印象だったのです。違和感と抵抗を感じつつ、いくつかの論文を読み、同時にこの数年間、自らの語法を模索しながら鏡像問題を考えるうちに、次第にこの二つの用語の概念について分析することの重要性に気づかされてきた次第なのです。以下、抽象的な言葉の議論で恐縮ですが、この問題について、考察してみたいと思います。


【比較の対象と変換の対象】
もっとも一般的に考えて、いやしくも「比較」という概念を使用する以上は少なくとも二つの対象の存在が前提になる。三つ以上になると一度に比較することができないから、普通は二つで比較される。これに対して「変換」は一つの対象を別のものに変えることであるから対象は一つであるともいえるが、普通何かを変換するといえばそれは物質的なものではなくて画像とかデータとかそういうものだろう。たとえば運動エネルギーが熱に変わったり物質がエネルギーに変わったりする場合は普通変換とは言わずに転換とか変化とか言う言葉を使う。画像とかデータなどは物質ではないからあるものを何かに変換しても変換元がなくなるわけではないことは、録音や録画、コンピュータでデータを変換することが日常的になっている現在、誰もが身に染みて理解していることだろうと思う。というわけで、変換の場合も対象は二つあるとは言えるのだが、ただ変換の場合は結果的に二つの対象ができたわけで、元は一つであるともいえる。とはいえ、あるものを別のものに変えようというのであるから、変える目的物としての対象は最初からあるともいえる。してみると、比較の場合も変換の場合も同様に二つの対象があるのだが、つまるところ「比較」の場合の二つの対象は最初から平等な、同じカテゴリーの対象として存在しなければならないのに対して、「変換」の場合は変換する前の対象と変換後の対象という、質的に異なった対象を扱うというべきだろう。

こういう次第で、「変換」の場合も二つの対象の存在が前提になっていると言えるのだが、変換を行う対象そのものは一つであるので、変換のプロセスなり原理なりを考察しているうちに当初の二つの前提となる存在を忘れがちになるのではあるまいか?「変換」の場合も当初から二つの対象が存在することが前提なのだ。その二つの対象に相違点と共通点とが想定できるからこそ、一方をどのように変化させれば他方になるかというプロセスを考察するわけであり、変換の前には常に比較があると言うべきではないだろうか。

★ 以上の、この項での結論を鏡像の問題、具体的に鏡映反転と呼ばれる鏡像問題に適用してみよう。鏡像問題の対象はよく「実物」と「鏡像」との比較の問題のように言われるが、本当は決してそうではない。実際は一人の観察者が「実物」から乱反射される光を直接眼で受け止めて見る場合の像と、光を鏡に反射させて見る場合の像との二つの像を比較しているのであって、光の経路が異なるだけであり、どちらも実物自体ではなく像なのである。対象が人物であるとすれば、どちらもその人自身ではなくその人の像なのであり、直接見る人物も鏡を介して見る人物も同じ人物像であって、光の経路が異なるだけなのである。だから自分自身の鏡像を見る場合、少なくとも顔や後姿は、自分自身が直接見ることができないわけだから、鏡像に対応する直接の像は存在しないのである。

こういう次第で、実物が鏡像に「変換」されると考えたとすればそれは明らかに錯覚である。また直接見る像が、対応する鏡像に「変換」されると考えるのもまた錯覚である。どちらの像も独立に成立するのである。一方の像が他方の像に変化したわけでもない。どちらも平等に、別個の像として存在するのである。比較の対象としても平等に存在するのである。ただ後から、「一方の像から他方の像に変化させられると仮定すればどのような手順で変化させられるのか」を考える場合に変換という概念が使用できるのではないだろうか。

従って、変換を行ったり、変換のプロセス、変換のメカニズムを考察したりするには前提として変換前の形状と変換後の形状の差異を認識した上で、どのような操作を行えばそのように変換できるのだろうか?という問題を解く形で考察していると考えるべきだろう。変換のプロセスを考察する以前に、ある程度の比較が行われていると考えるべきである。鏡像を含めて一切の像は、二つを比較する場合、違いを直感的に見つけるのは基本的には二つの像の重ねあわせだろう。

重ねあわせの際、平面と立体との違いは重要である。平面画像の違いを見つけることは比較的簡単である。単に並べてみるだけでも比較はできる。しかし立体となるとそうは行かない。平面の場合は一つを裏返しても方向が異なるだけで、同じ像が見えるが、立体を裏返すと全く異なった像が見える。従って二つの立体像を比較するには単に並べて見比べるだけではなく、裏返したりひっくり返したり、さまざまな操作が必要になる。こういう立体を比較する操作は相当に知的な操作であり、鏡像認知とともに人間の成人にしかできない認知作用と言えるだろう。

以上のように二つある像の一方あるいは両方を空間的に動かして比較するプロセスは決して「変換」のプロセスではない。「変換」以前のプロセスであり、「変換」は両者の違いを説明する一つの手段に過ぎない。比較プロセスで認識される差異は直感的なものである。変換は直感的な認知を概念的に説明するしかたであるともいえよう。


【「変換」の対象】
前項でも触れたが、「変換」は、それに似た言葉である「転換」や「変化」とは異なった対象に用いられる。変換は他動詞である。主語はまず人間に限られると言えよう。他方、目的語は何でもありといえるかもしれないが、多くの場合はデータとか形とかそういったものであろう。一方の「転換」は自動詞であって、主語は人間に限らず、多くは自然物やエネルギーである。

変換も転換も日本語であって、当然どの国語でもこれに相当する用語があるわけではないが、少なくともこの種の用語が他動詞的に使われる場合は本来は人間が主語であって、自然物に使われる場合は比喩あるいは擬人化と言えよう。

あまり推論する時間もないので端的に言って、変換の対象は現在では主に情報と呼ばれるもののようだ。他方変換のプロセスそのものはなんだろうか。どうも数学的、あるいは幾何学的な操作のように思われる。デジタル用語辞典によると、「変換」は「ある情報を異なる形式に変える処理」とある。この種の理論についてはよく知らないが、具体的に何を変えるかと言えば、記号を変えるというようなこともあるように思われる。座標軸のXをYに変えたり、プラスをマイナスに変えたりという具合。

★鏡像問題で座標系あるいは座標軸が用いられる場合に上下・前後・左右の軸が用いられることが多い。ここで相対的に逆転という「変換」を考えてみる場合、上下軸の上下方向や左右軸の左右の方向を逆転あるいは反転することだと言える。それはどういうことだろうか?それは言葉を変えることであり、反対の言葉を使用することである。言葉を変えること、互いに正反対の言葉を使用することは、詰まるところ、「意味」を変えること、「意味」を逆転させることに他ならない。

変換操作で上下を逆転させることや左右を逆転させることはすべて自由で何でもありである。単に記号や言葉を変えるだけで済む。しかし現実にはどうだろうか。頭のある方を下といい、足のある方を上と見ることはあり得るだろうか?逆立ちをしている人についてそういうことはいえるかもしれない。しかしこの場合は環境の上下が基準になっているのである。地上の環境も人間の場合と同様に上下があり、環境の上下が人間の上下に優先するということだろう。

表と裏の関係はかなり微妙である。人の手を考えてみた場合、手の甲を表と言うこともできるし、裏と見ることもできる。しかし、いったんどちらが表でどちらが裏であるかを決めた以上、鏡に映さない手と鏡に映った手を比べてみて表と裏の意味を逆転させることは許されないことだと言える。上下・前後・左右もすべて同様である。鏡像の問題を考える場合に限っては、上下・前後・左右の意味を逆転させてみることはあり得ないか、間違った見方であると言えよう。左右の場合は人間の場合は差が小さいから、逆転してみることはあり得るだろう。しかしそれは立体としての形を正しく見ていないのであり、間違った認知である。平面としてみるならば、可能であるとは言えるのだが。

こういう次第で、上下や前後や左右の軸を一つでも逆転してものを見るということは、形を正確に見るという観点からは許されないことである。あるいは平面的に見て、立体としての形状を無視していると言えるかもしれない。

鏡は平面だから鏡像も平面だと言う人がいるがそれは当然のこと間違いである。鏡像であろうが直接見る像であろうが、平面的にしか認知しない場合はいくらでもある。現実のところ、どのように表現すべきか、難しい問題だが、当面のところ簡単に言って立体と平面の中間で移ろっているとでもいうしかないようだ。

4 件のコメント:

ゴマフ犬 さんのコメント...

始めまして、私自身も1年ほど前に鏡映反転について素人なりにブログを書いていた関係でコメントさせていただきます。私の鏡映反転における記事もご覧いただけると嬉しいです。
私の説の意図は基本的に鏡映反転に置けるプロセスの幾何学的部分と心理的部分の明確化にあり、心理的部分においては問題点も多いこととは思います。(心理的な部分については正直よくわからないので。)
また、自分でつけた用語名もあまりこだわらなかった関係で、かなりわかりにくいかもしれませんが・・・。

以下、記事の内容についての意見です。
記事についての誤解などがあれば恐縮ですがお読みいただけると幸いです。
(その3以降の対応する記事にも意見のあるものにはコメントいたします。)

>「比較」という用語があまり重要な概念として使用されていないことも気になっていたと言えます。

私はあまり論文などを読めておりませんが、比較対象も示さないで反転と言っている意見には同様に違和感を感じました。比較対象がなければ、反転も何もないと思いますので。

>だから自分自身の鏡像を見る場合、少なくとも顔や後姿は、自分自身が直接見ることができないわけだから、鏡像に対応する直接の像は存在しないのである。

一応、(他の物体などで経験して)鏡についての知識があるなら、鏡像から対応する自分の像を想像することもあるのではないでしょうか?その像と鏡像を比較して反転を認識する場合も考えられると思います。(自分の像をそのように作っているのだから当たり前と言えば当たり前だとは思いますが。)

>鏡は平面だから鏡像も平面だと言う人がいるがそれは当然のこと間違いである。鏡像であろうが直接見る像であろうが、平面的にしか認知しない場合はいくらでもある。現実のところ、どのように表現すべきか、難しい問題だが、当面のところ簡単に言って立体と平面の中間で移ろっているとでもいうしかないようだ。

鏡像の認識については、鏡によって反射されてた光の経路は鏡の向こうに鏡の正面側と前後(鏡の面に垂直な方向)対称な世界がある場合と同じであって、それをどのように認識するかは観測者やその他の状況によるということではないでしょうか?

田中潤一 さんのコメント...

コメントをありがとうございます。めったにいただけないコメントですので、本当に有難く思います。その7まで引き続いて頂いていますが、だいたい1日に一件づつお答えさせていただきます。

■ まず「一応、(他の物体などで経験して)鏡についての知識があるなら、鏡像から対応する自分の像を想像することもあるのではないでしょうか?その像と鏡像を比較して反転を認識する場合も考えられると思います。(自分の像をそのように作っているのだから当たり前と言えば当たり前だとは思いますが。)」について。

それはその通りと思います。ただしその場合は鏡映反転ではなく自己鏡像認知の問題になると思うのです。それは感覚面では単に視覚だけではなく身体感覚や触覚などが含まれ、他人からの類推とか、現実に直接見ることにできない対象についての推理や想像力が関係する問題で、確実に認知できる2つの像の比較の問題ではなくなります。鏡像認知に関わる広範な問題を整理して解明するためには、鏡像問題を『確実に認知できる2つの像の比較』の問題に限定すべきだと考えています。

■ 「鏡像の認識については、鏡によって反射されてた光の経路は鏡の向こうに鏡の正面側と前後(鏡の面に垂直な方向)対称な世界がある場合と同じであって、それをどのように認識するかは観測者やその他の状況によるということではないでしょうか?」について。

それに反対というわけではありませんが、私が言わんとしていたことは別の問題だと思おいます。鏡像も鏡を通さない像も同様に網膜に映った実像を元に認知している像であって、視覚的には変わりがないということです。また平面云々というのは、所詮、視覚は対象が立体であっても表面しか見ることができないわけですから鏡像であるなしにかかわらず、平面と思えば平面だといえないこともないのでは、といった程度のことです。ただし奥行きが感じられないということは殆どないように思います。多少とも奥行きが感じられるのであれば立体であるといって差し支えないのではないでしょうか。しかし、より立体的であるとか、より平面的であるとか、程度の問題はあるように思いますね。

ゴマフ犬 さんのコメント...

ご返信ありがとうございます。

>それは感覚面では単に視覚だけではなく身体感覚や触覚などが含まれ、他人からの類推とか、現実に直接見ることにできない対象についての推理や想像力が関係する問題で、確実に認知できる2つの像の比較の問題ではなくなります。鏡像認知に関わる広範な問題を整理して解明するためには、鏡像問題を『確実に認知できる2つの像の比較』の問題に限定すべきだと考えています。

ここが少し理解しにくかったのですが、「鏡像認知に関わる広範な問題を整理して解明するためには、鏡像問題を『確実に認知できる2つの像の比較』の問題に限定すべきだと考えています。」の理由は何でしょうか?鏡映問題について、2つの像の形態の認知と、その後の反転の認知に分けて考え、まずは、反転の認知の方の問題に集中して、考えを整理しようということでしょうか?自己鏡像の問題においては、その実物の認知のあり方を、認知そのものをしない場合も含めて整理してから次の反転の認知について考えるべきということで。少しうるさいことを言うと、直接見ている像であってもその認識の在り方に脳が介在している以上、「確実に認知できる」と言えることはない(例えば、脳の作用によって実物とは全く違うものが見えていたり、その全体や一部が見えていなかったりする可能性は否定できないと思うので)と思うのですが、そのようなことはないと仮定して、とにかく「反転の認知」の部分に集中するべきではないだろうかということでしょうか?(ちなみに私の説では前提として認知の在り方を限定して考えております。別の認知をした場合は類推によって考えるという形で⦅これは明記はしておりませんが⦆。)

2つ目のコメントについては、平面と見るのはおかしいという意味ではなく、どちらかというと気になったのは「鏡は平面だから鏡像も平面だと言う人がいるがそれは当然のこと間違いである。」の方になります。この部分で否定しているのが、「鏡像は常に平面だ(平面でなければならない)。」という意見なのか、「鏡像は場合によっては平面とも考えられる」という意見なのかが、はっきりしなかったので(その後の部分から前者の否定かとは思いましたが)、確認の意味で質問させていただいた次第です。前者の否定(後者は否定していない)であれば特に異論はありません。ただ、反論ではないのですが、両目視差の問題もあるので、単純に平面扱いできない場合も多いと思うのと、平面であっても立体空間の中で表現できるので、平面も合わせて立体として扱っても問題ないとは思います。

田中潤一 さんのコメント...

ご返信ありがとうございます。

■ 『確実に認知できる』という表現は確かに具体性が乏しく不適切であったように思います。表現を変えると、『網膜像を元に通常の視覚能力で認知できる』とでも表現するともう少し具体的に仲と思います。別の面から考察すれば、『あらゆる鏡映反転に共通するメカニズム』と考えるとどうでしょうか。こうすると、自己鏡像の反転問題については『あらゆる鏡映反転に共通する反転メカニズム + 自己鏡像認知のメカニズム』となります。このように整理すれば、自己鏡像における鏡映反転メカニズムを2つの要素に分析できることになります。『あらゆる鏡映反転に共通するメカニズム』は他者像にも該当する筈です。他者像の場合は『自己鏡像の認知メカニズム』は含まれないはずですから、『あらゆる鏡映反転に共通するメカニズム』はすなわち、他者像の鏡映反転メカニズムに他ならないことになります。

引き続き、「その4」の記事に頂いたコメントについてお答えしたいと思います。