2025年12月26日金曜日

鏡像問題と哲学あるいは認識論 ― その5― カント哲学との関わりでその1、 認識論的カテゴリーの重要性

 機会があるたびに書いていることですが、私は哲学の専攻者ではなく、当然カント哲学の専門家でもなく、精通しているわけでもありません。という事で、このタイトルが意味するところは、カント哲学に精通している立場から鏡像の問題を考えるということではなく、逆に鏡像の問題を探求している過程において私に可能な限りで、カント哲学の幾つかの局面にぱったりと遭遇したという表現が適切です。その幾つかの局面というのは、言い換えると幾つかのキーワードとも言える幾つかの用語の概念に遭遇したという表現が適切かもしれません。まず今回は表題のとおり認識論的カテゴリーの重要性についてです。

鏡像問題を扱った諸々の従来説にみられる認識論的カテゴリーの扱いの混乱については、鏡像問題に関わる私の二つの論文、特に先般のPurely Physical Processes of Mirror Reversal and its Application to Vision Research で、また日本語出版物『鏡映反転現象における純粋な物理過程と認知過程: 鏡像問題の分析と解決―その2』で詳細に論じています。このようなカテゴリーの混乱は私自身の論述中にもあるかもしれません。しかし、少なくとも私が多くの従来説中に見出したこのようなカテゴリーの混乱は現象分析の根幹に関わって正しい解決への道を阻害する決定的な要因になっていたのではないかと考えられるものです。

科学のどのような分野であっても、分析の要素や手段において誤ったカテゴリーの適用あるいは使用が起こる可能性があるとは言えますが、鏡像問題においてはそれが問題の根幹にかかわるものであったという事です。というのは、鏡像の問題が物理過程と認知過程の両方に、本質的に関わり、いずれを欠いても有意な解決には至りえない性質の現象の問題であったからこそ、現在に至るまで未解決であり、上記のようなカテゴリーの混乱の原因であったように考えられるのです。さらにその物理過程は具体的には光学的なプロセスという事ができますが、光学と云ってもこの場合は幾何光学ですが、幾何光学は純粋に物理的なプロセスだけでは成り立たないという側面があります。要するに像、イメージという非物理的な要素を含まざるを得ないという点です。加えて人間の身体とその臓器の一つである眼の機能が土台にあります。という次第で、まったく異なるカテゴリーの要素群で構成されているメカニズムを分析する必要が生じるわけです。という次第で、何らかの分析要素が認識論的にどの上位カテゴリーに属すものか、最終的には物理的な範疇に属すものか、認知的な範疇に属すものかの判断が何らかの結論に至るうえでの決定要因にもなるわけです。

今回の私の研究では、物理的、幾何学的、および知覚心理的といえる三つのカテゴリーに判然と区別することで、鏡像反転における純粋に物理的なプロセスを解明し、他のプロセスから分離できたものと考えています。この論文最後の考察では、この問題を分析していますが、いずれにせよ、このようにカテゴリーを明確にすることによって、鏡像反転現象の純粋に物理的なプロセスを科学史上で初めて画定できたわけです。この問題にとって認識論的カテゴリーの識別がいかに重要であったかを示すものと考えています。

ところで、2022年に私が自分で第一論文と称している“Concept of the Isotropic Space and Anisotropic Space as Principal Methodology to Investigate the Visual Recognition,”を発表した時点でも、それまでに通読したカントの著作は『プロレゴーメナ』一冊だけでしたが、2021年ころから2年間程をかけてカントの『判断力批判』を通読し、その後ようやく『純粋理性批判』を読み始め、2025年の現在に至ってだいたい読了に近づいたという状況です。そのような次第で、カントのカテゴリー論に限っても全体の構想の中でそれを理解したとはとても言えませんが、それでも科学研究において分析要素あるいは概念のカテゴリーを整理し、認識することが如何に重要であるかを銘記させられたという事があります。この現在、科学研究において、あるいは研究者にとって、さらに深くカント哲学あるいはそのカテゴリー論に深入りする必要があるかどうかはともかく、少なくとも改めて認識論的カテゴリーの重要性を再認識すべき時期に来ているのではないかと思うものです。

2025年12月17日水曜日

鏡像問題と哲学あるいは認識論 ― その4― アリストテレスはなぜ鏡映反転現象について語らなかったのか。

 プラトンが『ティマイオス』の中で、鏡像反転現象について、ある説明を行っていることから、それではアリストテレスはこの問題について何も語らなかったのだろうか、という関心を持つのは自然な事だろうし、気になることである。そこで、幸い市立の図書館にアリストテレス全集があったので、関係のありそうなタイトルの巻から目次内容や索引をたよりにこの件を探ってみた。それ以外にも、アリストテレスの思想についても、一般教養程度の断片的な認識しかなかった私はこの際アリストテレスの思想を多少は体系的に学習してからとも思って、一冊のアリストテレス入門書の一部を読んでみたりしたりしてみたが、全集の自然学系の著作から検索してみると、この際、アリストテレスとプラトンの思想的な違いなどを踏まえて深堀りするまでもなく、もっと直截で分かりやすい理由が見つかったので、とりあえずそれについて取り上げてみたい。

それは『自然学小論集』の巻第二章で、プラトンが『ティマイオス』で述べている眼の仕組みについて批判している箇所があったことにある。それによると、プラトンが述べている眼の仕組みは、エムペドクレスの「視官が火である」という説を用いていることがわかる。それは、眼から光がでるときに視覚が発生するという説であって、プラトンの『ティマイオス』では眼から視線として出た光が対象から出る光と衝突したところで視覚が発生するというような意味にとれる。アリストテレスは、闇の中ではこの眼から出た光が消失するという点を不合理であるとし、この、眼から光が出るというエムペドクレスの説を否定しているわけである。

つまり、アリストテレスは『ティマイオス』で説かれる眼のしくみそのものを否定しているわけで、当然、プラトンによる鏡像反転現象の説明も否定されることになる。ではアリストテレスは鏡像反転現象について考えなかったのかどうかといえば、この現象自体はプラトンが『ティマイオス』で述べているとおり、すでに知られ、語られている現象であり、それをアリストテレス自身が解明したわけでもないので繰り返し述べる必要もなかったのだと思われる。

彼は別のところで「光学の専門家たち云々」という記述をしている。つまりアリストテレスは自分自身を光学の専門家とは考えていなかったことになる。そして光学の研究は光学の専門家に任せるつもりであったように思われる。では、光学現象としてではなく心理現象として鏡像反転現象について考えることはなかったのか、と問う事もできよう。それがなかったという事は、アリストテレスもやはり鏡像反転現象を眼の仕組みと関わる光学的な現象であると考えていたからであると思われる。それで、それも光学の専門家の今後の研究にゆだねる気持ちであったという事はできないであろうか。

このように考えてくると、鏡像反転現象が光学とは関係しない純粋な心理現象であるという発想は、近代科学の成立以降に発生した一つの迷妄ともいえるのではないかとも思えるのである。もちろん、心理学的、および認識論的な側面の重要性が浮かび上がってきたことは有意義ではあると思う。