前回同様、「縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題」の補足記事です。以前、一覧性においては横書きが優れているのではないかと書きましたが、その若干の修正になると思います。
このシリーズの最初の記事で述べたことですが、縦書きが読み取りの確実性、正確性の点で優れるのに対して横書きは一覧性と速読性において優れる面があると思われます。しかし一覧性について言えば、これは一行の読み取りに関することであって、ページ全体の一覧性について言えば、縦書きの方が優れているように思われます。これは一般的に言って縦方向よりも横方向の一覧性が優れているとすれば当然のことともいえますが、これはこれではっきりと指摘しておく必要があるものと思います。
一般に縦方向の一覧性よりも横方向の一覧性が優れていること自体は映画やテレビ、PCディスプレイの殆どが横長であることからも明らかで、殆ど自明のことであると言えるかもしれません。絵画の額縁や写真の場合も殆どが横長です。イメージでは文章よりも一覧性が要求されますから、これは当然のことでしょう。一方、文章の場合、書物の見開きではたいてい横長になりますが、1枚のシートでは、現在では縦長が標準のようです。しかし日本のような縦書き文化圏では伝統的にどうだったのでしょうか。縦書きと横書きの問題を考察する場合はこういう視点も必要になってくると思われます。
近いところで、今でも使われている原稿用紙は中央で二分され袋とじに対応し、袋とじにすると縦長にはなりますが、基本的に横長と言えます。他方、横書き用の原稿用紙は縦長で、袋とじには対応できない形式になっています。
書籍でも、大型の書籍や字の小さな雑誌では殆どの場合は数段の段組みになっています。横書きの場合ももちろん縦の段組みになる場合があるわけですが、データは確認していませんが、個人的な印象では、日本語の縦書きは英語の場合に比べて段組みになる場合が多いように思われます。新聞や雑誌のように縦の長さが短く、かなり極端な横長ページになると、縦の、一行あたりの一覧性も横書きにそれほど劣ることがなくなるうえ、横方向の(ページ)一覧性が加わり、横書きに比べて優れたページ全体の一覧性が得られるような気がします。
総合的な一覧性は、一概に言えないにしても、しいて言えば、縦書きの方が優れているのではないでしょうか。ページ全体の一覧性は一行の一覧性よりもメリットが大きいのではないかと思われるからです。もちろん、英文や数式の併記への対応を考慮すればそうも言っておられなくなってしまいますが。
「意味」にまつわる意味深長で多様なテーマを取り上げています。 2011年2月13日から1年間ほどhttp://yakuruma.blog.fc2.com に移転して更新していましたが、2011年12月28日より当サイトで更新を再開しました。上記サイトは現在『矢車SITE』として当ブログを含めた更新情報やつぶやきを写真とともに掲載しています。
2013年1月17日木曜日
2012年10月14日日曜日
横書きの漢字熟語は、明朝系のフォントがゴシック系よりも読みやすい ― 縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題その5
このタイトルの記事は「その4」で「まとめ」としていったん終了していますが、その後ちょっと気の付いた断片的一事例です。
気の付いたことというのは、横書き表示される日本語フォントでは、漢字の場合、縦横ともに単純な棒状の線で構成されるゴシック系のフォントよりも、横線の右側に上向きの三角(ウロコと呼ばれるそうですが)のついた明朝系の方が読みやすいのではないか、ということです。少なくとも個人的にはインターネット記事を見ているときなど、それを感じます。
これはこの三角形、うろこが必ず右側にあるために、左から右に向かう動きという方向性が感じられるためと考えられます。明朝体というのは「楷書の諸要素を単純化したものが定着している」そうですが、楷書の筆順では横線の場合、筆を左から右に向かって引くためにその動きが横線の形に表現されています。
前回までの記事で述べてきたように、左右の感覚は基本的に上下のような絶対的な方向性を持たないために、文字の横書きでは一定の規則や習慣によって左から右への方向が定められているわけですが、この横線の形態に現れた心理的な方向性によって、規則で定められた方向性が強化されているといえます。
さらに言えば、漢字の場合、横線の筆順、左から右への筆順は右利きに由来すると考えれば、この現象も人間の右利きに由来するといえるかもしれません。また横線のウロコに限らず、全体としての線の抑揚も筆順に由来するものであるため、抑揚が強いフォントの方が横書きに向いているように思われます。
◆ただし、読みやすさというのは単に横書きの場合の方向性だけではないので、上記のことは単に一つの要素にすぎないといえます。一つ一つの文字の読みやすさやその他の要素に比べてどれ程の比重を持つかについてはこれだけで何とも言えないものがあるように思います。
気の付いたことというのは、横書き表示される日本語フォントでは、漢字の場合、縦横ともに単純な棒状の線で構成されるゴシック系のフォントよりも、横線の右側に上向きの三角(ウロコと呼ばれるそうですが)のついた明朝系の方が読みやすいのではないか、ということです。少なくとも個人的にはインターネット記事を見ているときなど、それを感じます。
これはこの三角形、うろこが必ず右側にあるために、左から右に向かう動きという方向性が感じられるためと考えられます。明朝体というのは「楷書の諸要素を単純化したものが定着している」そうですが、楷書の筆順では横線の場合、筆を左から右に向かって引くためにその動きが横線の形に表現されています。
前回までの記事で述べてきたように、左右の感覚は基本的に上下のような絶対的な方向性を持たないために、文字の横書きでは一定の規則や習慣によって左から右への方向が定められているわけですが、この横線の形態に現れた心理的な方向性によって、規則で定められた方向性が強化されているといえます。
さらに言えば、漢字の場合、横線の筆順、左から右への筆順は右利きに由来すると考えれば、この現象も人間の右利きに由来するといえるかもしれません。また横線のウロコに限らず、全体としての線の抑揚も筆順に由来するものであるため、抑揚が強いフォントの方が横書きに向いているように思われます。
◆ただし、読みやすさというのは単に横書きの場合の方向性だけではないので、上記のことは単に一つの要素にすぎないといえます。一つ一つの文字の読みやすさやその他の要素に比べてどれ程の比重を持つかについてはこれだけで何とも言えないものがあるように思います。
2012年7月12日木曜日
歴史書と哲学書そして現代思想書(思想家の思想とは限らず)
今年の冬ころから思い立ってカントの純粋理性批判を読み始めたが、春頃には忙しくなったため中断した。その後、時間が取れるようになってもなかなか再開できない。とりあえず一つのまとまりである(先験的原理論の第一部門となっている)「先験的感性論」は何とかその場限りの文脈的理解というか、文脈上は「自分なりに」理解して読めたような気がする。しかし中断してから数か月ともなると忘却は如何ともしがたい。続いて「先験的論理学」の「先験的分析論」の途中までは読んだが、今からしおりの位置に戻っても読み続けることができるだろうか?たぶんできないだろう。ということで、なかなか再開できずにいる。
その代り歴史書がしきりに読みたくなり、何冊か読んだり、読み直してみたり。もとより基礎的な背景知識はこういう本を読む素人としても少ない方なのでそうやすやすと読めるわけではない。
それにしても哲学書と歴史書の表現はある意味で対極、極度に対照的である。
哲学書は端的に言って「〇〇とは何か?」の集積であるとも言えるのに対して歴史書は端的に言って「〇〇が何をしたか?」の集積である。さらにここでの〇〇はだいたいが固有名詞である。おおよそ哲学的とは言えないのである。悪く言えば下世話な挿話の集積であるともいえないこともない。ある意味では歴史書を読むのは哲学書を読むよりも格段に楽であり、楽しいともいえる。もちろん難しい過去の用語、政治経済法律がある。固有名詞にしてもおびただしい数の固有名詞を識別しなければならない。
包括的に、あるいは専門的に研究するのであれば、頭をフルに回転させなければならないという点ではどちらも同じようなものかもしれない。しかしそれにもかかわらず哲学者から見れば歴史家は安易で気楽に見えるのではないだろうか?歴史書にも面白くない、退屈なものも多いだろうが、楽しみながら読める歴史書は多いし、歴史家自身が楽しんでいることも多い事だろう。もちろん苦しみもあるだろうが、哲学の場合とは相当に性質は異なるように見える。他方、哲学者は楽しみながら哲学をできるだろうか。もちろん幸福と楽しみとは別である。
たとえば哲学者の梅原猛氏の場合、仏教など宗教についての本はたくさんあるが、専門的な哲学の書物、あるいは解説書なども、少なくとも一般向けには出されていないようだ。それに対して古代史関係の書物では有名な研究書がいくつかある。
哲学者が歴史に興味を持ち、歴史研究と何らかの関わりを持つことは当然ありうることだし、哲学と歴史の両方に興味を持ち、同じ比重で研究する学者も当然ありうる。あるいは一般に思想家というのはそういうケースが多いのかもしれない。中国や日本で昔から「学問」とされてきたものはそういうものだったのだろうか。
しかし少なくとも哲学的なものに一切の興味を持たずに歴史の研究に没頭することはできるし、歴史書を読むことも可能である。その場合はやはり、一方を忘れている、あるいは一方に対して盲目である、あるいは置き去りにしているということになるだろうか。
とはいえ、歴史と哲学の両方に目を配ったとされる、あるいはそう考えられている類の「思想」は、どうも浅薄で拵えものくさいのだ。たとえば唯物史観など。
いずれにせよ、哲学と歴史の両者の始点、あるいは原点に人間が位置することは間違いがない。「〇〇とは何か」、「〇〇が何をしたか」、いずれの始点にも人間が位置するのである。
カッシーラーが「人間」というタイトルの書物を書いたのもそういう意味だろうと思われる。
こういう始点あるいは原点という考え方とは別に、哲学と歴史の接点は他にもある。その最たるものはもちろん、言葉と神話、そして科学。それらこそ、カッシーラーの主著と言われる「シンボル形式の哲学」の内容そのものである。
ところで最近読み始めた本に、過去に購入したままこれまで読まずにいた二冊の本がある。
一冊は:
『アースマインド』ポール・デヴェロー、ジョン・スティール、デヴィッド・クブリン著、青木日出夫訳、1991年
もう一冊は:
『新しい科学論』村上陽一郎著、ブルーバックス、1979年第1刷発行、1996年第10刷発行
前者は当時購入したものの、なぜか今までまったくと言っていいほど手に取ることもあまりなかった。いま読み始めると、少なくとも最初の方だけで判断する限り、物質とは異なる霊的なものの存在をはっきりと前提にしているようだ。「アースマインド」という以上、それは当然なことかもしれない。
後者は、昨年頃、古書店の店外売り場で見つけたもので、200円で購入。
村上陽一郎さんの本はかつて1冊ほど薄い本を購入したことはある。それよりも、今は昔、NHKラジオの音楽番組で長期にわたって週一回のレギュラー出演者だったので親しみを感じていた。しかしなぜか同じNHKの科学番組でお目にかかることが殆どなかったのは不思議である。今は読む機会もないが朝日新聞の文化面などの評論でもお目にかかったことがあるような記憶がある。ということで科学史関連では日本の代表的な研究者なのだろうという印象は持っていたが、それにしては一般的な知名度は高くなく、マスコミ関係でも引用が少ないのではないかという印象もあった。
この本の発行は1979年(今回古書で購入したのは1996年の第30刷)で、著者の40代にあたるので比較的初期の著作になる。序文では中学生にもわかるように心がけたが、そのことで不当に内容の水準を落としてはいないとのこと。以前に読んだ薄い本は、少々物足りないというか、どっちつかずという印象があったように記憶している。そちらは「中学生にも」というより、特に若年層向きに書かれていたのかもしれない。
とりあえず目下、この2冊を早く並行して読んでゆこうか。ちなみにいずれも「現代思想書」に該当とするのが自然だろう。
その代り歴史書がしきりに読みたくなり、何冊か読んだり、読み直してみたり。もとより基礎的な背景知識はこういう本を読む素人としても少ない方なのでそうやすやすと読めるわけではない。
それにしても哲学書と歴史書の表現はある意味で対極、極度に対照的である。
哲学書は端的に言って「〇〇とは何か?」の集積であるとも言えるのに対して歴史書は端的に言って「〇〇が何をしたか?」の集積である。さらにここでの〇〇はだいたいが固有名詞である。おおよそ哲学的とは言えないのである。悪く言えば下世話な挿話の集積であるともいえないこともない。ある意味では歴史書を読むのは哲学書を読むよりも格段に楽であり、楽しいともいえる。もちろん難しい過去の用語、政治経済法律がある。固有名詞にしてもおびただしい数の固有名詞を識別しなければならない。
包括的に、あるいは専門的に研究するのであれば、頭をフルに回転させなければならないという点ではどちらも同じようなものかもしれない。しかしそれにもかかわらず哲学者から見れば歴史家は安易で気楽に見えるのではないだろうか?歴史書にも面白くない、退屈なものも多いだろうが、楽しみながら読める歴史書は多いし、歴史家自身が楽しんでいることも多い事だろう。もちろん苦しみもあるだろうが、哲学の場合とは相当に性質は異なるように見える。他方、哲学者は楽しみながら哲学をできるだろうか。もちろん幸福と楽しみとは別である。
たとえば哲学者の梅原猛氏の場合、仏教など宗教についての本はたくさんあるが、専門的な哲学の書物、あるいは解説書なども、少なくとも一般向けには出されていないようだ。それに対して古代史関係の書物では有名な研究書がいくつかある。
哲学者が歴史に興味を持ち、歴史研究と何らかの関わりを持つことは当然ありうることだし、哲学と歴史の両方に興味を持ち、同じ比重で研究する学者も当然ありうる。あるいは一般に思想家というのはそういうケースが多いのかもしれない。中国や日本で昔から「学問」とされてきたものはそういうものだったのだろうか。
しかし少なくとも哲学的なものに一切の興味を持たずに歴史の研究に没頭することはできるし、歴史書を読むことも可能である。その場合はやはり、一方を忘れている、あるいは一方に対して盲目である、あるいは置き去りにしているということになるだろうか。
とはいえ、歴史と哲学の両方に目を配ったとされる、あるいはそう考えられている類の「思想」は、どうも浅薄で拵えものくさいのだ。たとえば唯物史観など。
いずれにせよ、哲学と歴史の両者の始点、あるいは原点に人間が位置することは間違いがない。「〇〇とは何か」、「〇〇が何をしたか」、いずれの始点にも人間が位置するのである。
カッシーラーが「人間」というタイトルの書物を書いたのもそういう意味だろうと思われる。
こういう始点あるいは原点という考え方とは別に、哲学と歴史の接点は他にもある。その最たるものはもちろん、言葉と神話、そして科学。それらこそ、カッシーラーの主著と言われる「シンボル形式の哲学」の内容そのものである。
ところで最近読み始めた本に、過去に購入したままこれまで読まずにいた二冊の本がある。
一冊は:
『アースマインド』ポール・デヴェロー、ジョン・スティール、デヴィッド・クブリン著、青木日出夫訳、1991年
もう一冊は:
『新しい科学論』村上陽一郎著、ブルーバックス、1979年第1刷発行、1996年第10刷発行
前者は当時購入したものの、なぜか今までまったくと言っていいほど手に取ることもあまりなかった。いま読み始めると、少なくとも最初の方だけで判断する限り、物質とは異なる霊的なものの存在をはっきりと前提にしているようだ。「アースマインド」という以上、それは当然なことかもしれない。
後者は、昨年頃、古書店の店外売り場で見つけたもので、200円で購入。
村上陽一郎さんの本はかつて1冊ほど薄い本を購入したことはある。それよりも、今は昔、NHKラジオの音楽番組で長期にわたって週一回のレギュラー出演者だったので親しみを感じていた。しかしなぜか同じNHKの科学番組でお目にかかることが殆どなかったのは不思議である。今は読む機会もないが朝日新聞の文化面などの評論でもお目にかかったことがあるような記憶がある。ということで科学史関連では日本の代表的な研究者なのだろうという印象は持っていたが、それにしては一般的な知名度は高くなく、マスコミ関係でも引用が少ないのではないかという印象もあった。
この本の発行は1979年(今回古書で購入したのは1996年の第30刷)で、著者の40代にあたるので比較的初期の著作になる。序文では中学生にもわかるように心がけたが、そのことで不当に内容の水準を落としてはいないとのこと。以前に読んだ薄い本は、少々物足りないというか、どっちつかずという印象があったように記憶している。そちらは「中学生にも」というより、特に若年層向きに書かれていたのかもしれない。
とりあえず目下、この2冊を早く並行して読んでゆこうか。ちなみにいずれも「現代思想書」に該当とするのが自然だろう。
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