【今回の要点】
- 比較プロセスは思考プロセスであり、選択肢からの選択プロセスが含まれる。
- 回転、移動、逆転、反転、変形、変換などは比較を行なうための操作、手順であるか、差異の表現形式でもある。
- 鏡は、物体を光源とする光を反射することで鏡像の成立に寄与するが、それは鏡映対の一方だけであり、他方の成立には寄与していない。言い換えると鏡映対は互いに独立した光学系に基づいて独立して成立している。したがって鏡が他方の像を変形したり鏡像に変換することもその逆もない。
- 鏡は、光源にならない空虚な空間を反射したり空間に何らかの作用を及ぼしたりすることはあり得ない。当然、ある空間を別の空間に変換することもあり得ない。 したがって鏡の向こう側全体をこちらの空間とは異なる性質を持つ別空間と見ることに意味はなく、観察者にとっては同じ一つの視空間である。
- したがって鏡のこちら側と向こう側で異なる空間を表すために異なる座標系や座標の変換を考えることは無意味である。鏡映関係は個々の像の形状と位置についての関係であり空間の関係ではない。
- 鏡像は相手(直視像)と比較した場合にのみ鏡像としての特徴を示すのであり、両者間の差異は相対的である。
前回の考察で、鏡映反転のプロセスは鏡映対の成立プロセスと両者を比較するプロセスとの2つに分けて考える必要があることが明らかになりましたが、後者の比較プロセスは思考プロセスであることが最大の要点ともいえます。そしてこの思考プロセスには任意選択の要素が含まれるはずです。というのも、対掌体は任意の1つの方向で、つまりどのような1つの方向で形状が逆転しているともみられるので、事実上は無限の方向で逆転が認知される可能性があるわけです。
こう考えてくると髙野陽太郎先生の「光学反転」、すなわちTakano(1998)のTypeⅢの説明はこの点でもおかしいことに気付かれないでしょうか?光学的プロセスという物理的なプロセスでこのような思考が進行しているわけはありません。思考プロセスはあくまで観察者の心の中にあります。これはTypeⅠ(視点反転)と同様、一種の擬人化と言えます(TypeⅠでは鏡像が実在人物であるかのような擬人化)。科学上の表現にも擬人化はつきもので避けられない場合あるいは局面もあるでしょうが、擬人化が一人歩きするようになるととんでもない地点にまで行き着く危うさがあります。
TypeⅢの「反転」は、鏡の前で人物が肩の片方を鏡に向けている、つまり鏡面に対して横を向いているときに他の観察者が当の人物とその鏡像を見た場合に限定した説明です。この場合、両者の正面像に近い姿を同時に観察できるわけで、確かに左右逆転を認知する可能性が高いと思います。Takanao(1998)はその説明として光学的には鏡は鏡面に垂直な方向を逆転させる(これはGardner(1990)なども言っていることですが)ので、この場合は鏡の前の人物の左右方向が鏡面に垂直な方向なので、左右が逆転しているように見えるというわけです。
しかし「鏡は光学的に鏡面に垂直な方向を逆転させる」ということは科学的に正しい表現と言えるでしょうか。このような表現を行なっているGardner自身、鏡映の対は互いに対掌体であり、任意の1方向で特徴が逆転していると見ることができる旨を指摘しています。ですから鏡映反転の趣旨から言えば、光学的には鏡面に垂直な方向で形状が逆転していると見るのが正しくそれ以外は間違いであるとは言えないはずです。この例のような状況でも想像力の逞しい観察者が、鏡像または直接見る人物像のどちらかを上下軸を中心に180度回転させて(平行移動するだけではなく)両者を重ね合わせると、人物像の前後の逆転が観察される可能性を否定できません。
要するに、光学的プロセスが空間の特定の方向軸を逆転させるなどということはないのです。 きわめておおざっぱな比喩に過ぎないのです。実際のプロセスとしては鏡面対称(面対称)の図を描く場合の作図方法に過ぎないのです。すでに何度か述べてきたように思いますが、鏡は光線を反射しますが像を反射したり反転したりは絶対にしません。光は像ではないのです(英語ではどちらも「reflect」とい言いますが)。これについても言い換えると、鏡面対称を作図する場合は一方を鏡面に対して反転させて描きますが、現実の鏡映対は両者が独立した光学的プロセスで成立しているということですね。
高野説は、Gardner説などに含まれていた誤謬だけを徹底させた結果のような気がします。
ここでもう一度、TypeⅢの説明に戻りますが、このような状況の場合、人はなぜ左右の逆転が認知されるような像の合せ方(回転方向)をするのだろうか?という方向に考察を進めてゆくべきでしょう。TypeⅠの場合と同様に、左右の逆転を選択しがちであることは、Ittelson(1991)なども考察しているような左右軸の特殊性に着目することは自然な流れであるように思われます。せっかくのこの流れを押しとどめてしまってはつまりません。多幡達夫先生のTabata-Okuda(2000)やCorbalis(2000)の「左右軸の従属性」はこの流れの一つの帰結であるように思います。先般の日本認知学会に提出したテクニカルレポートはこの「左右軸の従属性」を再定義したといえる部分があります。ただし左右軸の特殊性だけにこだわることも一つの停滞であるように思います。左右のみならず上下・前後・左右、さらに知覚空間の一つである視空間全体にまで問題を拡張すべきです。実は、古くはE. Machがそういう知覚空間について述べているのですが、鏡像問題文献のほとんどが無視しているようです。著書の他の部分でマッハの功績を称えているGardner(1990)でさえ、これには言及していません。確かにマッハは視空間の性質と鏡像問題を結びつけることはなかったようですが、一方で鏡像の問題についても論じているし、対掌体に相当する概念で説明しています。少なくともカントよりも本格的に論じています。このこと(マッハを等閑視)自体、非常に興味深いことであると、私は考えています。(2017年5月5日、6日 田中潤一)
【今回のキーポイント】
- 鏡映反転のプロセスには鏡映対をなす2つの像が成立するプロセスと、この2つの像を比較するプロセスとの2つの主な要素に分けられる。前者は基本的に幾何光学的プロセスであり、後者は認知プロセスである。
- 2つの像を比較することは詰まるところ2つの像の差異を認知し、その差異を表現することである。従って比較される2つの像に客観的に識別できる差異(観察者個人の認知ではなく科学的に表現できる差異)があるかどうかを判定しなければならない。
- 2つの像すなわち鏡映対のあいだに客観的に(科学的に)表現できる差異がなければ鏡映反転は純粋に認知の問題であって幾何光学的プロセス、言い換えると物理的プロセスとは無関係であることになるが、客観的に(科学的に)表現できる差異がある場合は観察者がその差異を認識できるか、またどのように表現できるかが、認知の問題となる。
- 2つの像を客観的に、すなわち科学的に比較するための方法としては幾何学的な形状の比較以外にありえない。形状には当然、表面のパターンや色の分布も含まれる。
- 認知過程としての比較プロセスは思考過程である
- 鏡映対は同形ではなく互いに対掌体であることが明らかにされている。したがって両者には幾何学的に表現できる差異がある。
前回のとおり、像、光、および物体の三者の区別が必要であることは鏡像問題においてこの三者の存在が前提になっているからですが、仮にも鏡像の問題、鏡映反転に限らず、鏡像が関わる事象では、この三者と観察者の存在が前提になります。(この三者と観察者を含めた四者間の関係は単に「科学的に」規定できるようなものではないと私は思います。科学以前の常識あるいは科学を超えた認識論的視点にも焦点があてられる可能性があります。というのも、光と物体は物理的な存在であるのに対して像は物理的な存在ではなく、観察者の直接的な認知対象であり認知内容ともいえるものであるからです。しかし逆にいえば、認識論的な問題や主張を科学面から検証することにつながる可能性もあると考えられるわけで、そういう意味でも鏡像問題は単なる一つの問題ではなく、きわめて意義深いものになるのではないかと思う次第なのです。)
観察者を除き、三者のうち物体としては鏡と鏡に映る物体の2つですが、光(正確には光線)は普通物体とは言われません。ただし物体と光は共に物理的な存在であり、物体と光との関係を科学的に説明するには物理的な関係として説明する以外にありません。これだけで、仮にも鏡像が関係する問題には物理的な関係あるいは条件の関与は必須条件であり、いかなる具体的な状況であれ、物理的な条件を抜きに心理的な条件のみで鏡像問題を語ることはそれだけで間違いであるか不完全であることは自明ではないでしょうか?光と物体との相互関係を無視しては鏡像の問題は消えてしまいます。これは自明のことです。鏡像問題それ自体は数学の問題のように厳密に規定されていないとはいえ、鏡像を他の像から区別する意味がなくなってしまえば鏡像の問題ではなくなりますからね。
さらに、物理的といってもここで問題になっているのは光と物体との関係であり、それも鏡像に関わる限りの関係ですから、それに関わる物理学の分野としては必然的に光学、それも幾何光学を置いて他に考えられません。確かに光が物体に作用して物体の運動や化学変化に影響を与えることもあるでしょうし、眼の仕組みに関しては実際にその種の作用が問題になるでしょうが、それは像が成立する以前の問題であり、本文のタイトルのような像、光、および物体の三者の関係では眼の構造や原理については捨象、つまり消去して考える他はないので、鏡像の問題に関わる物理学としては幾何光学だけで十分といえるでしょう。
ところが、例えばMorris説を読み始めると鏡映反転を説明する理論としてのPhysical Rotation(物理的ないし身体的回転)説 やMental Rotation(心的回転)説などが光学説と共に、並列的に列挙されています。次に引用してみます:「Many psychological explanations have been advanced to explain
left-right reversal in mirror images, but Gregory and Haig have each
proposed a physical explanation for the
reversal.(多くの心理学的説明が鏡像の左右逆転の説明を進展させたたが、そこにグレゴリーとヘイグがそれぞれ「逆転」についての物理的な説明を提起した。)」ここではGregory(1987)の「Physical Rotation」とHaig(1993)の光学的説明が共に「物理的な説明」として一括されているわけです。
このように、物理学としては幾何光学だけで十分だと思われる鏡像問題に、なぜか「物理的な回転」という説明が使われているのですが、この論文では従来説として次の4種の説明が列記されています:
- Optical Explanation(光学的説明):Haig(1993)
- Physical object rotation(物体の物理的な回転):Gregory(1987)
- Symmetry(対称性):Pearth(1952)、Ittelson(1991)
- Mental rotation(心的回転):Gardner(1990)
ちなみにMorris説では言及されていませんがMayo(1958)ではPhysicalとかMentalなどを付けずに単に「Rotation」として「Reverse」と比較対照されています。「3」の対称性についていえば、対称性自体は幾何学的な概念または性質であって物理的プロセスではありませんが、「2」のPhysical object rotationは「4」のMental rotationとどこが違うのでしょう?実際のところ、Gregory説のPhysical rotationとはつまり、鏡の前の人が鏡と向き合うために180度回転することをこう表現しているわけです 。「鏡と向き合うために」回転すると言っていますが、Gregory(1987)が実際に意図していることは回転する前の人の姿と回転後の人の姿を比較しているのです。つまり同じ人の2つの姿を重ねて比較しているのであって、回転運動は(鏡の前の人物本人ではなく著者が)2つの姿を比較するための手段なのです。最終的にはそれらの像を鏡像と比較するためという他はないでしょう。 このような比較は本来、鏡像との比較が目的であったはずであり、つまるところ比較が目的であるという意味では「4」のMental rotationと同じで、どちらもMental rotationなのです。「4」のMental Rotationは、鏡像の方だけを回転することですが、これも実際に目に見えるように行うことは不可能なので、Mentalというのも当然でしょう。
Mayo(1958)では回転の他に、さらに「Reverse」や「Transform」が並行的に比較されています。その「Reverse」や「Transform」というは物体の各点が一つの方向だけで逆転することで、つまり鏡面対象の形に変形するということそのままであって、こうなると移動や回転といった物体の動きとしては不可能な変化で、あり得ない「変形」になってしまいます。
ここでこれ以上Gregory説やGardner説あるいはMayo説に深入りすることは煩瑣になるので避けたいと思います。以上の例で私が言いたいことは、これらの文脈でRotation(回転)やReverssal(逆転)など呼ばれているものはつまるところ二つの形状を比較するための操作であり、比較アルゴリズムともいえることです。これは物理的なプロセスではなく、むしろ思考プロセス、それも幾何学的思考のプロセスというべきです。それがMorris説ではHaig(1998)の光学的説明と併せて物理的な説明として一括され、心理学的な説明と対置されていたわけです。このような命名や分類は本人にとっても後に続く研究者にとってもミスリーディングという他はありません。
ともあれ、鏡像問題において物理学的なプロセスは幾何光学的なプロセスのみであり、後は光学的なプロセスで成立した2つの像を観察者が比較するプロセスであることが明らかになったわけです。
以上の光学的プロセスと認知プロセスのそれぞれについてさらに掘り下げる前に、従来説では鏡映反転という事象をこれらの2つの要素に分析することなく一つの現象として説明していたことに注目する必要があると思います。「鏡像問題は物理学で解ける問題なのか?心理学的に解くべき問題なのか?」というような二者択一的な問いかけもその表れといえるでしょう。
高野陽太郎先生が従来説のどれをも「単一の原理によって生み出される単一の現象とみなす点で共通していた」(認知科学VOL. 15, NO.3 Sep.2008)と解釈したのはこの点で部分的に理解できるものです。ただし引用部の後半「・・・単一の現象とみなす点で共通していた」には同意できますが、「単一の原理によって生み出される・・・」という規定は明らかに従来の諸説を歪曲した表現であると思います。例えばMorris(1993)はGardner(1990)を「Mental rotation(心的回転)」という一つの熟語で表現していますが、Takano(1998)は同じGardner説を「Conventional description hypothesis(言語習慣説)」と呼んでいます。「心的回転」と「言語習慣」とは全く意味が違いますが、こうなったのは結局Takano(1998)もMorris(1993)もGardner説の主張の一部を取り出してこの説を名付けているだけということでしょう。単一の原理を暗示するように命名したからといってGardner説を単一原理による説明とは言えないでしょう。Gardner説にも光学プロセスが潜んでいない保証はありません。いずれもGardner自身が自説にそのような名前を付けたわけではありませんからね。
高野先生はTakano(1998)においてGardner(1990)を引用していますが、そこでGardnerは次のように述べています「Such a reversal [mirror reversal] automatically changes an asymmetric figure to its enantiomorph」。ここでGardnerが言っていることは、鏡映対が互いに対掌体になっているということで、これは幾何光学的なプロセスが原因なのです。ですから、Gardner説には幾何光学的な帰結が前提として含まれているわけです。
高野説による従来説の解釈は詰まるところ、従来説において結論の前提となる諸々の条件を差し置いて結論の部分だけを取り出しているだけだと思います。高野説自体についてもそれが言えると思います。例えば高野説の「Type 1 Reversal(視点反転)」では観察者と鏡面と鏡像とを上から俯瞰した絵が描かれています。観察者自身が絶対に見ることのできない観察者自身や鏡の裏側に生じる鏡像を上から俯瞰したような絵はどうして描けるのでしょう?これは幾何光学の帰結を利用したものに他ならないのではありませんか?同様に「Type 2(光学反転)」についても、「Type 3(表象反転)」についても別個にイラストレーションがありますが、何れも幾何光学の帰結を描いたものであり、対掌体という表現を用いるとこれら3通りだけではなくすべての鏡映対の形状が対掌体という一つの言葉で表現できるのです。ですから対掌体に基づく理論では絵を描いたり、といったケースごとの具体的なイラストレーションは必要ないのです。これであらゆる鏡像問題の少なくとも前提となる部分については包括的な説明が実現されているわけです。(2017年4月26日 田中潤一)
【今回のキーポイントまたは結論】
- 鏡映反転を含め鏡像の問題はすべて立体像すなわち三次元の像を基本として考察しなければならない
先回には像、光、および物体、三者間の区別の重要性について考えてみましたが、今回は鏡像の問題を考える際には必ずこの三者(三種類)の存在(存在形態)を想定しなければならないことを強調したいと思います。
例えば文字の場合、文字が物質性を持たない平面であること、さらに抽象的な記号としての形状であること、この二重の意味で物質性を持つ物体からは切り離して検討することはできます。しかし、そもそも現実の鏡面で生じる鏡映反転という現象は、物質性を持つ物体を欠いては絶対に生じない現象なのです。
【光】
光は照明により物体から乱反射を介する場合と発光体がそのまま鏡に映る場合とがありますが、何れも光の存在が不可欠であることは自明のことでしょう。
【物体】
鏡については、これも物体ですが、この際一応鏡面という抽象的な機能が問題になっているので必ずしも物体としての鏡を想定する必要はないかもしれません。しかし、鏡面で反射する光の光源としての物体は、絶対に想定しなくてはいけません。そうして物体は常に三次元の存在であることも忘れられてはならないことです。
【像】
鏡像の問題なのだから像の存在が前提であることもまた自明であるといえます。ここで重要なことは、像は抽象的な形状つまり幾何学的な形状そのものではないことです。幾何学的な形状は像の属性と考えることができますが、像そのものは全体としても部分的にも何らかの意味を持つので、単に幾何学的な形状ではないということです。また像の存在は常に観察者の存在をも想定していることになります。
以上から、一つの帰結として、鏡像の問題は常に三次元の立体でなければならない物体の存在を前提として考察する必要があることがわかります。
何度も繰り返し取り上げて申し訳ないのですが、高野先生の「表象反転」は、抽象的な記号としての文字だけを他の場合と完全に切り離して全く異なった原理、つまり他のケースと共通する原理を含めずに説明している点でも、今回の要請からも容認できないものです。記号としての文字であっても鏡映が実現するには何らかの物体表面に書かれていなければなりません。どんなに薄い紙であっても、透明フィルムに書かれていようとも、質量を持つ物体なしに鏡像は成立しえないわけですから。
もちろん、抽象的な記号としての文字の鏡映反転を考察することは可能であるとしても、一つの付加的な条件として、すべての鏡映反転に共通する条件への付加的な条件として考察すべきものです。
(2017年4月18~20日 田中潤一)