【今回の要点】
- 鏡映対の成立(プロセス1)は、光の反射という物理的プロセスであると同時に鏡像認知のプロセスでもある
- 他者の鏡映対を比較する際には鏡像認知のプロセスは捨象(消去)されるので、鏡映対の成立は物理的プロセスと見なせる
- 自己鏡像を認知する場合、鏡像を認知するプロセスと、対応する自己像の認知プロセスは異なる(厳密には存在しない)ので鏡像認知のプロセスは捨象されない。
前々回と前回では鏡映反転を認知するプロセスは2つのプロセス:①鏡映対の成立プロセス(プロセス1)と、②鏡映対の比較プロセス(プロセス2)からなること、そして②の鏡映対の比較プロセスは物理的なプロセスではなく思考プロセスであるとし、この比較プロセスについて考察しましたが、今回は振り返って2つのプロセスで最初の①鏡映対成立プロセス(プロセス1)について改めて分析してみたいと思います。
前回の考察のとおり、高野説のType3は「光学変換」とされているものの、実際には比較プロセスに該当するものであることが判明しています。要するにこのプロセスは1つの共通空間の中で2つの像(の形状)を比較するプロセスです(この共通空間についてはまた改めて検討したいと思います)。これで、高野説のType1、Type2、およびType 3はすべてプロセス1の条件の記述が欠落していることになります。三者それぞれについてイラストや具体的な状況説明はありますが、それらの状況に共通する光学的、すなわち光の鏡面反射による鏡像の成立という鏡像問題の基本前提である物理的な条件を全く素通りしています。これは、鏡映反転は物理的な現象ではなく全面的に心理的な現象であるとする髙野陽太郎先生の主張に合致していますが、物理的な条件を絵を描くことと具体的な状況説明だけで済ませ、理論としては素通りして心理的なプロセスのみを考察しているのですから、物理的な条件を既存の解決済みの条件とみなしているわけで、これも一種の「論点先取りの誤謬ないしは詭弁」に相当するのではないかと思うのですがね...。
さて、それではプロセス1すなわち鏡映対の成立プロセスは本当に、あるいは純粋に物理的なプロセスであるといえるのでしょうか?
鏡映対はふつう、鏡面に対して面対称(鏡面対称)の対をなす立体像、― 大抵は人物像ですが ― として表現され、図に描かれます。例えば以前の記事で使用した次の図のような図です。この図では鏡像はB’のみで、AとA2は何れも観察者、Bは観察者A2が鏡を介さずに直接人物を見た像を表しています。
このBとB'は鏡面に対して面対称に描かれている訳ですが、この面対称という概念はGardnerもそう述べているように数学上の概念であって、実際に実物ないしは光の像が面対称の図のように成立しているわけではありません。実際には(A)が(B')を見る光学系と、(A')が(B)を見る光学系は独立していて相互に何の関係もないのであって、一つの光学形として同時に成立している訳ではありません。以前、「鏡は光を反射するのであって像を反射するのではない」といったのはこの意味です。つまり、これは虚像である鏡像を作図するためのテクニックであって、決して物理的にこのような対が成立しているわけではない。つまり、鏡面対称という状況は数学的な概念であって、物理的にそのようなものが成立しているわけではないので、鏡映の対は単純に物理的なプロセスだけで成り立っているとは言いきれません。そもそも、これも何度も言っていますが、鏡像であっても直視像であっても像というものは心で知覚される内容であって物理的な存在では決してありません。結論を言えば、鏡映対の成立には物理的な光学プロセスと、鏡像認知という認知プロセスが同時に進行しているとでもいうより他はありません。
ただ、自分ではなく他者の鏡像を見る場合は比較する対の双方(直視像と鏡像)を認知するプロセスは共通しているので、両者の差異を見つけるときには捨象(消去)され、結局プロセス1は光学的で物理的プロセスであるといって差し支えないわけです。しかし客観的に見られる他者ではなく自分の鏡像の場合、鏡を介しない直視像は存在しないので、厳密な意味で自己鏡像の鏡映対は存在しません。ただ他者(自己の身体の一部を含めて)の鏡映反転から類推できるだけです。高野先生は自分の正面像の鏡映反転を説明しなければ鏡映反転を説明したことにはならないとおっしゃいますが、そのためにはまず他者の鏡映反転のメカニズムをきっちりと説明しなければ不可能なのです。事実高野説においても観察者とその鏡像を上から俯瞰したという、見えるはずのない絵や状況説明を行なっていますが、絵に描いたり外観を描写したりする時点でそれはもう他者の鏡映反転を考察していることに他ならないのです。例え自分自身の外観を想像できたとしても、想像した時点ですでに客観化されていて、それはもう想像上の他者なのです。
というわけで、鏡映対の成立プロセスは鏡像認知のプロセスでもあるのですが、ここで問題になるのは一般に鏡像認知の問題は即自己鏡像の認知プロセスとみなされる場合が多く、他者の鏡像を含めた鏡像認知一般についてはこれまであまり議論されていなかったのではないでしょうか?今後はこの分野の進展を願うばかりです。これは重要な問題で、これまでの鏡映反転の議論の中には鏡像認知の問題が潜んでいる場合が多いのです。そこではかなり混乱した議論が見られるように思います。 下の図は認知科学会に提出済みのテクニカルレポートで使用したもので、鏡像認知と鏡映反転の関係を描いたものです。
(以上、2017年5月25日 田中潤一)
以下、前回にそのまま続きます。
【今回のポイント】
- 鏡面対称と対掌体対とは明確に区別しなければならない
ところで、Gardnerの主張の矛盾は何に由来するのでしょうか。この矛盾はよく考えると非常に重要な問題であることに気付きました。まずこの矛盾を整理してみましょう。
次の三段論法が成り立ちます:
(1)鏡面対称の2つの立体は互いに対掌体である。
(2)対掌体の対は任意の1方向で互いに逆転していると見られる。
(3)故に鏡面対称の対は任意の1方向で互いに逆転していると見られる。
鏡面対称の図は「鏡は光学的に鏡面に垂直な方向を逆転させるので、鏡映対は鏡面に垂直な方向で逆転が認知される」という高野陽太郎先生の説:Takano(1998)のTypeⅢの根拠となっているものですが、「任意の1方向」と「鏡面に垂直な方向」は明らかに異なります。実際、可能性としては鏡面に垂直な1方向以外のいかなる方向でも逆転が認知される可能性はあるはずです。やはり「鏡は光学的に鏡面に垂直な方向を逆転させる」という表現と主張におかしいところがあるのではないでしょうか?
上記の三段論法の帰結である「任意の1方向で互いに逆転していると見られる」が光学プロセスの帰結であるとすれば、「鏡は光学的に鏡面に垂直な方向を逆転させる」も間違いとは言えないように見えます。しかし、後者の表現では、鏡面に垂直な方向以外の任意の方向で逆転しているとも見られる可能性が覆い隠されているとは言えないでしょうか?
見方をかえると、鏡面対称の状態であるということは、鏡映対が互いに対掌体であるという条件に加えて鏡面対称であるという両者の位置関係の状態が付加されているということができます。この位置関係というのは表現が難しいですが、両者の「特定の方向軸が鏡面に垂直な方向で互いに逆転している」というように表現できると思います。この方向軸という概念が座標系の座標軸と紛らわしいのですが、少なくとも数値座標を表すものではない限り座標軸と呼ぶ必要はないし、座標系を想定する必要もないと考えるものです。単に方向を示す軸と考えていただきたいのですが、この「特定の方向軸が鏡面に垂直な方向で互いに逆転している」という場合、鏡面の両側の各像が互いに鏡面に対して垂直に特定の方向軸で逆転しているといえます。実はこの問題を述べたのが本シリーズ「鏡像の意味論 ― その6」で、イラストを使って説明していることなのです。
結論は、鏡面対称の状態は、対掌体の対が互いに特定の方向軸で逆転している、すなわち向かい合っている、あるいは対面状態にあるということです。対掌体の対はそれだけでは互いの位置関係については何も規定されていません。例えば自分の左手の上に右手を重ねたような状態は鏡映関係ではあり得ないのですが互いに対掌体の形状であることに違いはありません。ですから対が互いに対掌体であることと特定の方向で向かい合っているという鏡面対称の状態であることは全く異なる意味、あるいは条件ということができます。対掌体の対が特定の方向軸で互いに向き合っている場合、本来どの1軸で(方向)形状が逆転しているとも見なせるわけですから、当然この方向での逆転が認知されて不思議はありません。特定の方向軸の逆転という意味では、このような状態は鏡像が存在しなくても日常的に無数にあるのです。早い話が、二人の人物が互いに向かい合っている状態がこの状態そのものです。Takano(1998)のTypeⅢに似た例でいえば、横並びの人物像の一方のが鏡像ではなく別人が後ろを向いていたり、こちらを向いていても逆立ちをしていたりした場合、両者の左右は逆転しているので左右が逆転していると言えます。つまりTypeⅢで左右が逆転して見えるプロセスは鏡像であるかないかとは関係のないプロセスなのです。確かに一方の人物像が他方の人物像と同じ上下と前後を向きながら左右が逆転しているのは一方が他方の鏡像であるからですが、この場合一方が他方の鏡像であることが分からなければ、両者で左右の逆転に気付くこともありません。
以上のように、Takano(1998)のTypeⅢの「光学反転」もTypeⅠおよびTypeⅡの場合と同様、鏡像の問題を事実上放棄したにも等しいといえるのではないでしょうか。
余談になりますが、このように鏡面対称と対掌体は区別すべきで、紛らわしい使用法は避けた方が良いのではないかと思います。例えば化学では鏡像異性体というような用語がありますが、こういう用語はあまり適切ではないのではないでしょうか?
【今回の要点】
- 比較プロセスは思考プロセスであり、選択肢からの選択プロセスが含まれる。
- 回転、移動、逆転、反転、変形、変換などは比較を行なうための操作、手順であるか、差異の表現形式でもある。
- 鏡は、物体を光源とする光を反射することで鏡像の成立に寄与するが、それは鏡映対の一方だけであり、他方の成立には寄与していない。言い換えると鏡映対は互いに独立した光学系に基づいて独立して成立している。したがって鏡が他方の像を変形したり鏡像に変換することもその逆もない。
- 鏡は、光源にならない空虚な空間を反射したり空間に何らかの作用を及ぼしたりすることはあり得ない。当然、ある空間を別の空間に変換することもあり得ない。 したがって鏡の向こう側全体をこちらの空間とは異なる性質を持つ別空間と見ることに意味はなく、観察者にとっては同じ一つの視空間である。
- したがって鏡のこちら側と向こう側で異なる空間を表すために異なる座標系や座標の変換を考えることは無意味である。鏡映関係は個々の像の形状と位置についての関係であり空間の関係ではない。
- 鏡像は相手(直視像)と比較した場合にのみ鏡像としての特徴を示すのであり、両者間の差異は相対的である。
前回の考察で、鏡映反転のプロセスは鏡映対の成立プロセスと両者を比較するプロセスとの2つに分けて考える必要があることが明らかになりましたが、後者の比較プロセスは思考プロセスであることが最大の要点ともいえます。そしてこの思考プロセスには任意選択の要素が含まれるはずです。というのも、対掌体は任意の1つの方向で、つまりどのような1つの方向で形状が逆転しているともみられるので、事実上は無限の方向で逆転が認知される可能性があるわけです。
こう考えてくると髙野陽太郎先生の「光学反転」、すなわちTakano(1998)のTypeⅢの説明はこの点でもおかしいことに気付かれないでしょうか?光学的プロセスという物理的なプロセスでこのような思考が進行しているわけはありません。思考プロセスはあくまで観察者の心の中にあります。これはTypeⅠ(視点反転)と同様、一種の擬人化と言えます(TypeⅠでは鏡像が実在人物であるかのような擬人化)。科学上の表現にも擬人化はつきもので避けられない場合あるいは局面もあるでしょうが、擬人化が一人歩きするようになるととんでもない地点にまで行き着く危うさがあります。
TypeⅢの「反転」は、鏡の前で人物が肩の片方を鏡に向けている、つまり鏡面に対して横を向いているときに他の観察者が当の人物とその鏡像を見た場合に限定した説明です。この場合、両者の正面像に近い姿を同時に観察できるわけで、確かに左右逆転を認知する可能性が高いと思います。Takanao(1998)はその説明として光学的には鏡は鏡面に垂直な方向を逆転させる(これはGardner(1990)なども言っていることですが)ので、この場合は鏡の前の人物の左右方向が鏡面に垂直な方向なので、左右が逆転しているように見えるというわけです。
しかし「鏡は光学的に鏡面に垂直な方向を逆転させる」ということは科学的に正しい表現と言えるでしょうか。このような表現を行なっているGardner自身、鏡映の対は互いに対掌体であり、任意の1方向で特徴が逆転していると見ることができる旨を指摘しています。ですから鏡映反転の趣旨から言えば、光学的には鏡面に垂直な方向で形状が逆転していると見るのが正しくそれ以外は間違いであるとは言えないはずです。この例のような状況でも想像力の逞しい観察者が、鏡像または直接見る人物像のどちらかを上下軸を中心に180度回転させて(平行移動するだけではなく)両者を重ね合わせると、人物像の前後の逆転が観察される可能性を否定できません。
要するに、光学的プロセスが空間の特定の方向軸を逆転させるなどということはないのです。 きわめておおざっぱな比喩に過ぎないのです。実際のプロセスとしては鏡面対称(面対称)の図を描く場合の作図方法に過ぎないのです。すでに何度か述べてきたように思いますが、鏡は光線を反射しますが像を反射したり反転したりは絶対にしません。光は像ではないのです(英語ではどちらも「reflect」とい言いますが)。これについても言い換えると、鏡面対称を作図する場合は一方を鏡面に対して反転させて描きますが、現実の鏡映対は両者が独立した光学的プロセスで成立しているということですね。
高野説は、Gardner説などに含まれていた誤謬だけを徹底させた結果のような気がします。
ここでもう一度、TypeⅢの説明に戻りますが、このような状況の場合、人はなぜ左右の逆転が認知されるような像の合せ方(回転方向)をするのだろうか?という方向に考察を進めてゆくべきでしょう。TypeⅠの場合と同様に、左右の逆転を選択しがちであることは、Ittelson(1991)なども考察しているような左右軸の特殊性に着目することは自然な流れであるように思われます。せっかくのこの流れを押しとどめてしまってはつまりません。多幡達夫先生のTabata-Okuda(2000)やCorbalis(2000)の「左右軸の従属性」はこの流れの一つの帰結であるように思います。先般の日本認知学会に提出したテクニカルレポートはこの「左右軸の従属性」を再定義したといえる部分があります。ただし左右軸の特殊性だけにこだわることも一つの停滞であるように思います。左右のみならず上下・前後・左右、さらに知覚空間の一つである視空間全体にまで問題を拡張すべきです。実は、古くはE. Machがそういう知覚空間について述べているのですが、鏡像問題文献のほとんどが無視しているようです。著書の他の部分でマッハの功績を称えているGardner(1990)でさえ、これには言及していません。確かにマッハは視空間の性質と鏡像問題を結びつけることはなかったようですが、一方で鏡像の問題についても論じているし、対掌体に相当する概念で説明しています。少なくともカントよりも本格的に論じています。このこと(マッハを等閑視)自体、非常に興味深いことであると、私は考えています。(2017年5月5日、6日 田中潤一)