確かに、民主主義という言葉とその概念には問題があるように思われる。例えば、最近あるウェブサイト ― 教えられるところの多いウェブサイトではあるが ― では次のような表現が見られる。「私、副島隆彦は、×「民主主義」というコトバは、使わない。× デモクラティズム democratism というコトバはない。」。
確かに、有名な辞書にdemocratismという言葉は見つからない。しかしWebを検索してみるとこの言葉は現実に使われていないわけではない。意味付けについてはいろいろ問題がありそうだし、日本語の民主主義に相当するのかどうかも問題があろうが、権威ある辞書に載っていないというだけでその言葉が存在しないとは言えない。ましてその言葉で表現されている概念まで存在しないとは。
確かに、「Democracy」を「民主主義」と訳すのは不正確であると思う。 「制度」は「主義」、言い換えると「思想」ではないからである。しかしだからと言って日本語で「民主主義」と表現される概念が「ない」とは言えない。民主制という「制度」 ― Wikipediaを見ると英語では"System”と表現されているが ― はそれなりの人々の思想、希望、意志、心情、心性、あるいは欲求の反映であり、そういう心理的なものに支えられているのだから、民主主義という言葉で表現される概念はあるはずである。個人主義がその大元にあるように思われるが、個人主義がそのまま民主制の根拠となるわけでもないと思われる。
簡単に言って、個人主義と民主制の間に民主主義が介在していると考えれば、あるいは『個人主義⇒民主主義⇒民主制』という系列または順序を考えればわかりやすいのではないか。個人主義と民主主義との関係を多面的に考察することで実り多い成果が得られるような気がする。
「意味」にまつわる意味深長で多様なテーマを取り上げています。 2011年2月13日から1年間ほどhttp://yakuruma.blog.fc2.com に移転して更新していましたが、2011年12月28日より当サイトで更新を再開しました。上記サイトは現在『矢車SITE』として当ブログを含めた更新情報やつぶやきを写真とともに掲載しています。
2019年5月12日日曜日
2019年4月22日月曜日
科学、科学主義、唯物主義、個人主義、および民主主義をキーワードとして日本の戦前・戦中・戦後問題を考えてみる(その1)
注記: 今回のテーマは、昨日ひと通り読み終えた本『祖父たちの昭和―化血研創設期の事ども―(太 田原和橆著)』の一節に触発されて着想を得ました。この著作は先般、私の別のブログ『矢車SITE』で言及したとおり、昨年に友人である著者から贈られたものです。当該作品についての全体的または部分的な感想や紹介についてはまた別の機会に別のブログかまたは本ブログで取り上げてゆきたいと思っています。この記事はあくまで上記著作の一節のみに触発された私自身の問題意識で書き始めました。
まず当該書籍の引用から:「戦後生まれの私にとって、第三日記に見られる最も際立った特徴は、やはり、戦時中と終戦後の極短期間で祖父豊一が示している心象の大きな変化、一種の『変節』である。― 中略 ― もっとも、終戦直後における手のひらを返したような変節は、日本国民の間でよく見られたようで、昨日まで軍国主義者だった中学の先生が、終戦を境にアメリカ贔屓に豹変したという類の逸話も珍しくない。また、そのような変節は、GHQの操作により促された節もある。」
上記引用のような複雑な戦後日本の状況は、著者や私のような団塊世代の人間にとっても自然に環境から伝わってきたように思えるが、私個人的には祖父に関する知識は一切なく、父親も戦争以外の原因で亡くなっていたため、著者の祖父に相当するような公人的立場の知識人はもちろん、何らかの記録を残すような人物には身近に恵まれず、この点で当事者的な感覚からは比較的遠かったと言える。しかし、今回のように友人の祖父の日記という形でこの間の経緯を具体的に目にしてみると(日記の文章は長くなるので上記の引用では省略)、これまでに比べてより当事者体験に近いものが感じられたように思う。
かかる「変節」のメカニズム、正当性、または非正当性を考察するのにまず自分自身の心情から類推してみると、端的に言って、戦時中と終戦の過程においてアメリが日本と日本人に対していかにひどい仕打ちを行ったとしても、アメリカがもたらした終戦後の社会環境はそれ以前の社会に比べて少なくとも一面でそれまでになかった居心地の良さと開放感をもたらしたことは紛れもない事実ではなかったかと思われる。その根拠となる思想を一言で言い表すとすれば個人主義という表現以外には考えられない。
個人主義と民主主義との関係性については多様な論理付けが可能だろうが、まず直観的に、民主主義的制度の根拠が個人主義に求められることは明らかだろう。結果から言えば、アメリカから押し付けられた民主主義的制度と不可分に伴う個人主義的な諸々の社会制度の変化が、殆どの国民にとって居心地の良さと開放感をもたらすものであって、これはいわゆる知識層と一般庶民に共有されていたもののように思われる。この個人主義の先進国であるアメリカへの憧れが科学技術の面での先進性とあいまって、戦勝国への反感を凌駕するものだったのだろう。
個人主義の根拠についても多様な論理があるだろうが、まず直観的に科学、科学主義、唯物主義、物質主義、といった思想、思潮、風潮との密接なつながりは眼に見えて明らかではないだろうか。人間、ヒト、家族、国民、人類、といった単位の中で物理的に、視覚的に、そして触覚的に明らかに区別できる単位は個人だけである一方、各人が意識的に自覚できる単位も、それぞれの個人以外にはありえない。
この科学、科学主義、唯物主義、物質主義が現今、再考、再吟味、あるいは反省と批判の対象になりつつあり、一方でますます増長する科学主義との対比が明瞭になりつつあるように思われる。
まず当該書籍の引用から:「戦後生まれの私にとって、第三日記に見られる最も際立った特徴は、やはり、戦時中と終戦後の極短期間で祖父豊一が示している心象の大きな変化、一種の『変節』である。― 中略 ― もっとも、終戦直後における手のひらを返したような変節は、日本国民の間でよく見られたようで、昨日まで軍国主義者だった中学の先生が、終戦を境にアメリカ贔屓に豹変したという類の逸話も珍しくない。また、そのような変節は、GHQの操作により促された節もある。」
上記引用のような複雑な戦後日本の状況は、著者や私のような団塊世代の人間にとっても自然に環境から伝わってきたように思えるが、私個人的には祖父に関する知識は一切なく、父親も戦争以外の原因で亡くなっていたため、著者の祖父に相当するような公人的立場の知識人はもちろん、何らかの記録を残すような人物には身近に恵まれず、この点で当事者的な感覚からは比較的遠かったと言える。しかし、今回のように友人の祖父の日記という形でこの間の経緯を具体的に目にしてみると(日記の文章は長くなるので上記の引用では省略)、これまでに比べてより当事者体験に近いものが感じられたように思う。
かかる「変節」のメカニズム、正当性、または非正当性を考察するのにまず自分自身の心情から類推してみると、端的に言って、戦時中と終戦の過程においてアメリが日本と日本人に対していかにひどい仕打ちを行ったとしても、アメリカがもたらした終戦後の社会環境はそれ以前の社会に比べて少なくとも一面でそれまでになかった居心地の良さと開放感をもたらしたことは紛れもない事実ではなかったかと思われる。その根拠となる思想を一言で言い表すとすれば個人主義という表現以外には考えられない。
個人主義と民主主義との関係性については多様な論理付けが可能だろうが、まず直観的に、民主主義的制度の根拠が個人主義に求められることは明らかだろう。結果から言えば、アメリカから押し付けられた民主主義的制度と不可分に伴う個人主義的な諸々の社会制度の変化が、殆どの国民にとって居心地の良さと開放感をもたらすものであって、これはいわゆる知識層と一般庶民に共有されていたもののように思われる。この個人主義の先進国であるアメリカへの憧れが科学技術の面での先進性とあいまって、戦勝国への反感を凌駕するものだったのだろう。
個人主義の根拠についても多様な論理があるだろうが、まず直観的に科学、科学主義、唯物主義、物質主義、といった思想、思潮、風潮との密接なつながりは眼に見えて明らかではないだろうか。人間、ヒト、家族、国民、人類、といった単位の中で物理的に、視覚的に、そして触覚的に明らかに区別できる単位は個人だけである一方、各人が意識的に自覚できる単位も、それぞれの個人以外にはありえない。
この科学、科学主義、唯物主義、物質主義が現今、再考、再吟味、あるいは反省と批判の対象になりつつあり、一方でますます増長する科学主義との対比が明瞭になりつつあるように思われる。
2018年11月4日日曜日
鏡像の意味論、番外編その8 ― 像の[認知]から[表現]へ ― 表現手段としての方向軸
一種の想起実験のような考察をしてみようと思います。
まず観察者に一人の人物の後姿を真後ろから見せるとします。その際に右か左かの半身を隠して片側だけを見せるようにします。見えるのが人物の右半身か左半身かを尋ねると大抵の観察者はすぐに正しく答えられると思われます。
次に同じ後ろ姿で上半身か下半身の何れかを隠した場合、観察者は同様に後姿の上半身であるか下半身であるかを答えられない人は言葉を知っている限りいないでしょう。
以上の二つの場合を比べてみて、右半身か左半身かを判断する場合と上半身か下半身かを判断する場合で何らかの違いがあるでしょうか。少なくと形状の違いを見て直観的に判断している点で違いはないと思われます。
では次に同じモデル人物を正面から、つまり前から右半身か左半身を隠して観察者に見せ、見えるのが右半身か左半身か何れであるかを尋ねるとします。この場合、後姿の場合のようには即時に答えられない被験者も出てくるのではないでしょうか。また被験者によって逆の答え、あるいは一方からすれば間違った答えかたをする場合も出てくるように思われます。
以上の例から察するに、右半身か左半身かを判断する場合に混乱が生じるとすれば、それは前から観察するか後ろから観察するかに起因ものであって、前後軸そのものと左右軸そのものの性質に起因するものではないことがわかります。上半身か下半身かはどちらの場合も同じですが、右半身か左半身かは、前から見る場合は逆転するからです。またこれが人間以外の道具などの場合、たとえばノートパソコンやグランドピアノなどの場合、左右は普通、人間とは逆転することも一つの原因でしょう。
上半身と下半身の場合にそういうことが生じないのは、人が向きを変えるときに上下軸を中心に回転するからにほかなりません。これは上下軸そのものの性質ではなく、ある意味偶発的な条件だと思います。
この、いわば認知上の現象を人体の左右対称性と関係づける見方もあります。確かにヒトのように左右が面対象の立体では左右の形態的特徴は全く同じで区別できません。しかし砂時計のように前後のないものは別として、ヒトのように前面と背面で異なる形状を持つ立体の場合、左半身と右半身の形状を明確に区別できることは上述の想起実験自体が示すように自明であるともいえます。
なおこの種の実験、例えばモデル人物を横たえて同じことをするとか、穴から右手か左手だけを出して実験するとか、いろいろ興味深い考察ができると思いますが、問題が複雑になるので、とりあえず今回は最初の実験だけで考察できることだけで進めて行くことにします。
左右対称だけがこの種の紛らわしさ、間違いやすさの原因ではないことは、例えばモデル人物に片手を上げてもらうなどして左右を非対称にした状態で同じ実験をした場合を考えてもわかることです。この場合、見た目の形状は明確に左右が非対称であるにも関わらず対面する人物の左右を示すのに戸惑いや間違いが生じます。またグランドピアノなど、左右が非対称ですが、やはり前後軸との関係で人間とは逆の左右が慣習的に与えられています。ですからやはり、左右対称と左右判断の難しさ、曖昧さ、あるいは間違いやすさとは無関係なのです。
とはいえやはり、人体などの左右対称性は何らかの形でこのような左右の特性と何らかの関連性があるのではないかという直観的な印象は完全に拭いきれないものです。現に人体の左右の特徴、形状の違いを表現することは困難で、単に右側か左側かという言葉で表現するしかないのですから。
端的に言って、鍵は「表現」にあります。「認知」は「表現」とは異なります。しかし、認知した内容は言葉で表現しなければその後が始まりません。たとえ他人に伝える必要がなくても意識的な思考を続けるには的確な言葉を見つける必要があります。この意味で「識別、特定、同定」、英語で言えば「Identification」といいった意味において「認知」と「表現」は表裏一体です。すなわち、認知内容というシニフィエを特定するためには表現手段というシニフィアンが必要である」と言えます。
面対象の立体を視覚で認知した場合、両側でそれぞれ認知されるシニフィエは確かに異なっているのですが、通常は同じシニフィアンでしか表現できない、ということになります。この際、人体のように外形が左右対称形の場合は右か左かという言葉を追加せざるを得ないというわけです。(この際に付加される右または左の根源はヒトの知覚空間にあり、それは異方的であり、上下・前後・左右は空間に固定されているということです)。
上半身と下半身の場合、上半身は頭のある方で、頭のてっぺんが最上位にあります。また足の裏が最下部です。上半身と下半身では明らかに形状の持つ意味内容が明確に異なり、頭とか足などの異なるシニフィアンで表現できます。しかし右半身と左半身ではどちらも人の半身であるとしか言いようがなく、区別するには右か左かをつけるしかありません。この点で左右対称は意味を持っています。左右対称の人体は相対的にしか左右の違いを表現できません。幾何学的に違い自体は相対的に表現できるわけで、これは対掌体の対と同じですね。どちらも相手との関係でしか表現できないのです。頭の形とか足の形などは別に他方と無関係な概念ですから、上下や前後は形状の持つ意味が異なるので簡単に言葉でも区別できるわけです。
ところが上下・前後・左右という表現自体もシニフィアンである以上、それら自体のシニフィエというものがあるはずです。そうしてシニフィアンに対するシニフィエの入れ替わりなどの混乱要因が生じてきそうですね。
いまシニフィアンとシニフィエの関係でこれ以上の考察を進める余裕はありませんが、とりあえず時間系列で言えばシニフィアンよりも先にシニフィエが成立することは明らかです。認知と表現の関係でいえば順序として認知が先にあり、表現が後です。
このような認知と表現の時系列は気付かれにくいところがあるように思われます。むしろ上下、前後、左右の認知に時系列があるように錯覚されやすいのではと思われるのです。しかし仮に時系列差があったとしても認知される内容自体に変化が生じるわけではありません。ところがいったん明確な言葉で表現されると次の考察に影響を与えます。この点で表現、あるいは認知と表現の微妙な関係に着目することが重要だと思います。
なお、今回の考察も番外編のつづきで、鏡像問題、鏡映反転については触れていません。もちろん関係はありますが、そのまま、これだけで鏡像問題に適用できるわけではないと考えています。
まず観察者に一人の人物の後姿を真後ろから見せるとします。その際に右か左かの半身を隠して片側だけを見せるようにします。見えるのが人物の右半身か左半身かを尋ねると大抵の観察者はすぐに正しく答えられると思われます。
次に同じ後ろ姿で上半身か下半身の何れかを隠した場合、観察者は同様に後姿の上半身であるか下半身であるかを答えられない人は言葉を知っている限りいないでしょう。
以上の二つの場合を比べてみて、右半身か左半身かを判断する場合と上半身か下半身かを判断する場合で何らかの違いがあるでしょうか。少なくと形状の違いを見て直観的に判断している点で違いはないと思われます。
では次に同じモデル人物を正面から、つまり前から右半身か左半身を隠して観察者に見せ、見えるのが右半身か左半身か何れであるかを尋ねるとします。この場合、後姿の場合のようには即時に答えられない被験者も出てくるのではないでしょうか。また被験者によって逆の答え、あるいは一方からすれば間違った答えかたをする場合も出てくるように思われます。
以上の例から察するに、右半身か左半身かを判断する場合に混乱が生じるとすれば、それは前から観察するか後ろから観察するかに起因ものであって、前後軸そのものと左右軸そのものの性質に起因するものではないことがわかります。上半身か下半身かはどちらの場合も同じですが、右半身か左半身かは、前から見る場合は逆転するからです。またこれが人間以外の道具などの場合、たとえばノートパソコンやグランドピアノなどの場合、左右は普通、人間とは逆転することも一つの原因でしょう。
上半身と下半身の場合にそういうことが生じないのは、人が向きを変えるときに上下軸を中心に回転するからにほかなりません。これは上下軸そのものの性質ではなく、ある意味偶発的な条件だと思います。
この、いわば認知上の現象を人体の左右対称性と関係づける見方もあります。確かにヒトのように左右が面対象の立体では左右の形態的特徴は全く同じで区別できません。しかし砂時計のように前後のないものは別として、ヒトのように前面と背面で異なる形状を持つ立体の場合、左半身と右半身の形状を明確に区別できることは上述の想起実験自体が示すように自明であるともいえます。
なおこの種の実験、例えばモデル人物を横たえて同じことをするとか、穴から右手か左手だけを出して実験するとか、いろいろ興味深い考察ができると思いますが、問題が複雑になるので、とりあえず今回は最初の実験だけで考察できることだけで進めて行くことにします。
左右対称だけがこの種の紛らわしさ、間違いやすさの原因ではないことは、例えばモデル人物に片手を上げてもらうなどして左右を非対称にした状態で同じ実験をした場合を考えてもわかることです。この場合、見た目の形状は明確に左右が非対称であるにも関わらず対面する人物の左右を示すのに戸惑いや間違いが生じます。またグランドピアノなど、左右が非対称ですが、やはり前後軸との関係で人間とは逆の左右が慣習的に与えられています。ですからやはり、左右対称と左右判断の難しさ、曖昧さ、あるいは間違いやすさとは無関係なのです。
とはいえやはり、人体などの左右対称性は何らかの形でこのような左右の特性と何らかの関連性があるのではないかという直観的な印象は完全に拭いきれないものです。現に人体の左右の特徴、形状の違いを表現することは困難で、単に右側か左側かという言葉で表現するしかないのですから。
端的に言って、鍵は「表現」にあります。「認知」は「表現」とは異なります。しかし、認知した内容は言葉で表現しなければその後が始まりません。たとえ他人に伝える必要がなくても意識的な思考を続けるには的確な言葉を見つける必要があります。この意味で「識別、特定、同定」、英語で言えば「Identification」といいった意味において「認知」と「表現」は表裏一体です。すなわち、認知内容というシニフィエを特定するためには表現手段というシニフィアンが必要である」と言えます。
面対象の立体を視覚で認知した場合、両側でそれぞれ認知されるシニフィエは確かに異なっているのですが、通常は同じシニフィアンでしか表現できない、ということになります。この際、人体のように外形が左右対称形の場合は右か左かという言葉を追加せざるを得ないというわけです。(この際に付加される右または左の根源はヒトの知覚空間にあり、それは異方的であり、上下・前後・左右は空間に固定されているということです)。
上半身と下半身の場合、上半身は頭のある方で、頭のてっぺんが最上位にあります。また足の裏が最下部です。上半身と下半身では明らかに形状の持つ意味内容が明確に異なり、頭とか足などの異なるシニフィアンで表現できます。しかし右半身と左半身ではどちらも人の半身であるとしか言いようがなく、区別するには右か左かをつけるしかありません。この点で左右対称は意味を持っています。左右対称の人体は相対的にしか左右の違いを表現できません。幾何学的に違い自体は相対的に表現できるわけで、これは対掌体の対と同じですね。どちらも相手との関係でしか表現できないのです。頭の形とか足の形などは別に他方と無関係な概念ですから、上下や前後は形状の持つ意味が異なるので簡単に言葉でも区別できるわけです。
ところが上下・前後・左右という表現自体もシニフィアンである以上、それら自体のシニフィエというものがあるはずです。そうしてシニフィアンに対するシニフィエの入れ替わりなどの混乱要因が生じてきそうですね。
いまシニフィアンとシニフィエの関係でこれ以上の考察を進める余裕はありませんが、とりあえず時間系列で言えばシニフィアンよりも先にシニフィエが成立することは明らかです。認知と表現の関係でいえば順序として認知が先にあり、表現が後です。
このような認知と表現の時系列は気付かれにくいところがあるように思われます。むしろ上下、前後、左右の認知に時系列があるように錯覚されやすいのではと思われるのです。しかし仮に時系列差があったとしても認知される内容自体に変化が生じるわけではありません。ところがいったん明確な言葉で表現されると次の考察に影響を与えます。この点で表現、あるいは認知と表現の微妙な関係に着目することが重要だと思います。
なお、今回の考察も番外編のつづきで、鏡像問題、鏡映反転については触れていません。もちろん関係はありますが、そのまま、これだけで鏡像問題に適用できるわけではないと考えています。
(2018年11月5日 田中潤一)
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