2020年9月29日火曜日

略語、特にアクロニムの多用による重大な弊害について、「PCR検査」を例に考える ― いくつかの比較日本語論的トピックス (その2)― 日本語から見た英語の無生物主語と擬人化

英語の翻訳という仕事を続けるうえで煩わしい問題の1つは、増加する一方のアクロニム(頭字語)の扱いである。アクロニムは翻訳せずに済む場合もあるが、いつもそれで押し通すわけにも行かない。そのためには、表現方法の問題はさておき、まず意味が分からなければ話にならない。今では各種の辞書も充実し、大抵の場合はウェブ検索で何とかなるが、それでもわからない場合もなくはない。

アクロニムというものは本来、可能な限り避けるべきものであろう。英語の原文にもいろいろあり、高い信用度が要求されるような書類の場合は、注釈としてアクロニムのリストが付けられているのが普通である。また科学雑誌で英語論文の投稿規定などをみると、基本的にアクロニムは使うべきではないとされ、使う場合は当然、定義を明確に付記すべきことが要求されている。しかし近年の技術用語、ビジネス用語、とくに報道、マスコミ用語ではこの種のアクロニムは増殖する一方であり、その使い方も恣意的であり、論理的でもなく、ときは無責任極まりない使われ方をされている場合も多い。報道、ジャーナリズムはお笑い番組でも仲間内のお喋りでもないはずである。

例えば、「AI」の場合、文章記事ばかりではなくテレビやラジオ放送でも大抵の場合は日本語で「人工知能」という言い換えが追加されるのだが、一方、最近の「PCR検査」の場合はどうだろうか。PCRの場合は殆ど初めて聞かされた時から今に至るまで、少なくとも通常のニュース番組で何らかの説明が付加されたことは聞いたことがない。私の記憶では、この言葉が頻繁に使われだしたのは政府広報などよりもむしろジャーナリストや進歩的文化人と言った人たち、あるいはツイッターの発信者たちの発言からであったような印象がある。私は当初からこの略語の使用に不信感を持っていた。というのは、この略語を使う人たちの多くがしきりにもっとCR検査をせよ、拡大せよとまくし立てるのだが、一般人がそれまで聞いたこともないPCR検査なるものについていきなりどうのこうのと言われても困るのである。それが政府や行政を批判する文脈で発言されていれば、PCRの意味など理解されずとも、行政に不満を持つ多くの人々の支持を得やすいのは確かではある。しかしそれは無責任ではないか。それで私は最初からそういう意見に耳を貸すつもりはなく、あえて急いでPCRの意味を調べることは怠っていた。

一方、逆にオーソリティの側でしきりに使われはじめ、いまでもある意味では基本用語として頻繁に使われているのは略語ではないが「感染者」という言葉である。この言葉に対する不信感についてはすでに本ブログで記事にしている。こちらの方は一応「感染者」という字義通りの意味は、分かるのだが、そもそも感染者というのはどういう状態の人のことを言うのか、どうやって判定するのかが全く分からないのである。つまりこの場合は新型コロナウィルスの感染者と言う、字義通りの意味はあるが、そういうものは一般人が見て判別できるようなものではないということである。つまり新型コロナウィルス感染という状態自体が眼に見えるわけでも、耳で聞こえるわけでも、触って分かる訳でもないからである。という訳でこちらは、略語とは少々レベルが異なるが、やはり意味が隠されている言葉であると言えるだろう。しかしなまじ固有の意味を持つ単語が使われているだけになお問題は複雑である。

その後、PCR検査について、一般人にも分かりやすく説明をしてくれるHPやユーチューブチャンネルに遭遇して、私はそれが病原体を検出するものではないことを知るに至って、この検査の必要性を喧伝する人たちに対する不信感はいよいよ高まる一方になったのである。

その後数日前になってようやくPCRそのものについてネット検索した見たところ、PCRとはpolymerase chain reactionの略であり、日本語では「ポリメラーゼ連鎖反応」であることを知るに至った次第である。英語では25文字が3文字に短縮されるのだから随分と効率的であるに違いないが、日本語による本来の記述では10文字であり、しかもPCRでは本来の日本語の記述を全く反映できていない。

確かに「ポリメラーゼ連鎖反応検査」と言っても素人には何のことか判らないことは確かであるが、もともと概念自体が難しいのだから他に言いようがない。では「ポリメラーゼ検査」と略してみればどうだろうか。英語でもこういう略し方はできる。ただし、この検査は1つの技術であるので、概念的な正確さが格段に落ちることは確かだろう。しかし素人向けにはそれでも良いのではないか。ポリメラーゼが何を意味するかは分からなくとも、少なくともそれが化学物質の名前であって、新型コロナウィルスの名前ではないことも推察できる。もちろん新型コロナウィルスとどう関係があるのかまでは分からないが、多少とも知識欲のある人であれば、この何でも簡単にネット検索ができる現在、すぐにでも調べてみる意欲を持つことができるであろう。PCRでは何のことか全くわからないのである。私自身、数日前まで調べる気にもならなかったのである。同時に喧伝者を信用する気にもならなかった。

アクロニムは本来、言葉を使う際の効率上、やむを得ずに発生してきたものだと思うがやはり一種の暗号のようなものであり、悪用と言っては語弊があるが、恣意的な目的で利用されやすいことにはことさら注意すべきだろう。特に科学技術や学術的に使われることが多いの問題だと思う。

哲学者カッシーラーは科学について、科学は真理に近づくためにも使われるが真理を覆い隠すためにも使われると言っている。言葉についても同じことが言える。アクロニムはこの点で余程注意が必要で、特にジャーナリストや報道関係者は慎重に使用すべきだと思う。政治家に至ってはもちろんである。信用にかかわると思うべきであろう。一方一般人の立場からは、やたらにアクロニムを多用するジャーナリストや政治家や文化人に対しては、悪意や善意とは関係なく1つの信用と警戒の尺度になるともいえる。

(以下30日追記)

他方、別の視点、というより、もっと比較日本語論的な視点で見れば、ここで図らずも漢字熟語やカタカナ語を平仮名に混在させられる日本語のメリットが改めて明らかになっている事にも注目すべきだろう。漢字熟語はもちろん、カタカナ英語にしても文字数から言えばアルファベット表記よりも短くなっている。文字の大きさから言えばどうしてもアルファベットよりも大きくなってしまうので、スペース的にはそれほど節約できるとは限らないけれども、読みやすさの点でも漢字熟語やカタカナを併用する日本語のメリット、英語などのヨーロッパ言語ではアクロニムに頼りがちになるような長い単語を短く、視覚的にも表現できる漢字カタカナ混り日本語のメリットを生かさない手はないのではないか。こういう日本語のメリットについては夙に多くの見識家によって繰り返し主張され紹介されてきたはずであるけれども、なかなか主流派の意見とはならならず、英語のメリットの方が強調される流れは相変わらず強く、日本語自体も英語の影響を強く受け続けている。もちろん英語の影響を受けることに利点がないとは言えないが、少なくとも安易にアクロニムに頼ることは悪影響の一つといえるだろう。もちろんすべてとは言わないが。

というわけで、PCR検査は当面、略語を使わずに日本語で「ポリメラーゼ連鎖反応検査」と表現するのが良いと私は考える。くだけたところでは「ポリメラーゼ検査」でもよいのではないかと思う。


2020年8月14日金曜日

いくつかの比較日本語論的トピックス ― 日本語から見た英語の無生物主語と擬人化 (その1)

 簡単な序論

 最近、比較日本語論的な論議が、以前にも増して盛んになってきているように思われます。これは一方で時代のニーズでもあると思います。ただし、比較と言っても事実上は英語との関係に限られることになりがちですが、それはやはり時代の要請から、そうならざるをえないことを前提に、本稿を進めたいと思います。

一つの範疇にくくられる有名な言説として、日本語の音韻、特に母音の特殊性に関するものがあります。それらについては興味深くはあるものの、筆者にとってはいまのところ近づくすべはないという印象です。一つの理由は、それらが現在の脳科学の成果と結びついて主張されている場合が多いことです(例えば右脳と左脳との関係など)。現在に至るまでの脳科学には多くの重要な成果があるには違いはないとは思いますが、個人的には方法論的になじめないところが多く、また実験的な研究ともなれば実験物理学的なアプローチが必要になるでしょうが、私には立ち入れない世界です。

もう一つは、超科学的、あるいは神秘思想的な言説と結びつけられることが多いことです。私はこの種の思想や言説について、たとえば疑似科学という風にとらえて否定し、無視することには反対ですが、かといってそのまま素直に理解でき出来るわけでもありません。脳科学がそれを理解する契機になれば良いのでしょうが、少なくとも今の筆者には捉えどころがなく、これまでの本ブログの文脈からも、近寄りがたいのです。

本ブログの文脈はあくまでその名の通り意味に関するものです。もちろん、音楽については言うに及ばず、言葉の音韻を含めてどのような音にも何らかの意味はありますが、言葉としての意味はあくまで言語的概念と表現手段の問題になるように思います。本シリーズではこの二つの局面でトピックを見つけて取り上げて行きたいと思います。

 

言語表現における生物と無生物の区別

日本語表現では生物と無生物を区別する傾向が強いことは、昔からよく指摘されてきた有名な常識であり、日本語のこの特徴は、ここで改めて指摘するまでもないことですが、日本語では人や動物が存在する場合には「いる」という動詞を使い、無生物の場合には(植物については微妙ながら)「ある」を使い分けていることですね。一方の英語などでは、要するに三人称に関して人間や生き物についても無生物と同じbe動詞と代名詞を使うということですね。もっとも英語では単数に限ってはheとsheとitを使い分けていますが、複数になればすべて同じtheyを使うし、他のヨーロッパ言語ではすべての名詞に性別が残っているため、完全に人間や動物と無生物との間に区別がありません。抽象名詞にしても同じこと。これまでの比較日本語論的な議論ではこの点について掘り下げたり展開されることが少なかったのはなぜなのかを考えて見ることには重要な意味があるようにおもわれます。一つの理由として考えられることは、これまでは英語の合理性と先進性に注目することが多く、欠点に注目することが少なかったからではないか、という疑念がもたれれます。私自身は最近特にこの点に関心を持っていて、この日本語の特徴は、少なくとも英語を始めとする欧米系諸言語との比較においては、日本語の特質であることを超えて、優れた点であり得ることに注目すべきであると考えます。逆に言えば英語の欠点につながるのではないかということです。その端的な例が、本ブログの6月4日の記事でも再録しましたが、筆者の別ブログ『発見の発見』で6月3日に投稿した記事「鏡像問題の議論に見られる英語表現の問題点について考える」で指摘したことの1つです。この記事では英語のreflectという語を例にとりましたが、要するに、生物と無生物を区別しない傾向はbe動詞と代名詞だけではなく、英語全般に行き渡っているということが言えるように思われます。

 

無生物主語と擬人化 

― あらゆる言語に、見かけ以上に、潜在的に、広範に広がる無生物主語 ―

英語の無生物主語については普通あからさまな擬人化に見えるような表現について、語られるようです。例えばweb検索を行ってみると次のような例が挙げられています:「雨が、私が釣りに行くのを妨げた」。この表現は日本語としては変だが英語では普通の事であるとし、「無生物主語構文」と定義されています(http://cozy-opi.sakura.ne.jp/englishgrammar12.html)。しかし、鏡像問題の例で取り上げたような、reflect、あるいは名詞化されたreflectionなどの動詞の基本的な用法については、無生物主語とみられることはなかったように思われます。

無生物を主語にすること自体はどの言語でもごく普通に見られることです。雨の例でいえば、日本語では普通に「雨が降る」と、雨を主語にして表現します。逆に英語では、「Rain falls」というよりも「It rains」というのが普通のようです。この点ではドイツ語でも同じと思いますが(Es regnet)。このことは英語やドイツ語ではrainが動詞でもあることと関係しているのでしょう。日本語では雨は動詞にはならないが、形容詞的であるとも言えます。日本語では形容詞は動詞なしで使えるので、日本語では形容詞だけで言葉が成立します。「雨だ」と。英語では普通、動詞は主語を要求するので、要するに普通は主語と動詞のセットが要求されると言えます。これも英語で無生物が主語になる機会が多くなる原因でしょう。

とはいえ、日本語でも無生物を主語にする表現はごく普通に使われることであり、基本的には程度の問題であると言えないこともありません。ただ、存在を意味する動詞で、生物と無生物では「いる」と「ある」という全く異なる言葉を使うという点で、本質的に重要な差異があるように思われます。それは、「いる」と「ある」の違いは他の多くの動詞においても区別され、「いる」と同じ範疇にはいる動詞と「ある」と同じ範疇にはいる動詞とに区別できるように思います。この区別は一言でいえば人間的な意味を表現する動詞と物理的な意味を表現する動詞との区別です。この区別は実際の人間、生物と無生物の区別に対応するわけではありません。というのも、人間も物理的な物体とみられることがあり、端的な例をあげると、普通、死体は「いる」とは言わずに「ある」と言います。反対に、無生物に人間的な、あるいは生物的な側面があるかと言えば、少なくとも日本語的にはそれはないと考えるのが普通で、無生物の物体に「いる」という表現は使いません。もしそのような表現がつかわれるとしたら、その場合は擬人化されていると言って良いと思います。(注:ここでは抽象名詞の主語については考えていません)

【Migrateという例(自動詞)】

 例えば、「動く」という動詞は生物主語にも無生物主語にも使えます。また「移動する」も、人間を含めた生物主語にも無生物主語にも使えるわけですが、「移住する」という動詞は普通、人間にしか使えません。無理をすれば、動物や植物にも使えると思いますが、物体や物質には使いませんね。ところが英語でこれに相当する「migration」は、大きな物体にはあまり使われることはないものの、物質、特に化学物質など、自然科学上の文脈で使われることが多いように思います。例えば地球化学や地質学では岩石や土壌中の分子の移動の意味でよく使われ、一般化学でも電気分解におけるイオンの移動などの意味でもごく普通に使われる言葉であり、英語として使用され、表現されている限り、日本人であっても、特に違和感や抵抗を感じることもないように思われます。この意味では最初に例に挙げた「reflection」の場合と全く同様ですね。これは言語に固有の特徴と考えるべきで、必ずしも人間性や民族性とはそれほど関係がないのかもしれません。しかし、民族性に多少関わるかもしれない要素として宗教性あるいは宗教的な心性との関係は否定できないような気もしますが。

【Reflectという例(他動詞)】

鏡という物体を主語として使われる「reflect」の場合について考えて見ます。対応する日本語の「反射する」について考えて見ると、普通、光を反射する場合には英語と同様、鏡を主語として「鏡が光を反射する」で、特に違和感がない印象があります。上の例のように、物質を主語にして「移住する」という動詞を使った場合に感じられる不自然さは感じられません。しかし、この言葉の場合、反射するという言葉自体が、西洋の近代科学が日本に導入される以前からあったのでしょうか?どうも「reflection」の訳語として「反射」という名詞が新しく作られたような気がします。ちなみにkindle版「言海」でこの言葉を調べてみたところ、動詞形の「反射する」の説明はなく、名詞としての反射については、「光リノ映リテカヘル」 という極めて簡潔な説明だけがあります。この説明は、光を反射する鏡などの物体を主語にするのではなく、反射される光を主語として自動詞的に表現しているように見えます。上の例と併せて考えてみると、英語との比較で、日本語では全体的に物理的な存在が主語となる機会が少ないうえに、他動詞の主語として使われる機会が自動詞の主語となる機会に比べてさらに少ないのではないかと思われます。

英語の無生物主語他動詞構文

ここで改めて英語の無生物主語構文の問題にもどってみると、無生物主語構文は無生物主語他動詞構文とも表現されており、特に無生物の擬人化的な表現はすべて他動詞であることが条件であることが分かります。これは、無生物を主語とする極めて普通の文であっても、他動詞の場合にはより擬人化的である場合が多い可能性を示していると思います。

言語的擬人化

 一般に自動詞が持つ意味と、他動詞が持つ意味とを、主語との関係で比べてみると、他動詞の方が主語の意思や意図を示す度合いが強いと思われます。それは明確に主語と目的語あるいは対象語という対立関係があるからと考えられます。それに対して自動詞の場合、必ずしもそういう対立関係がないので、主語の意思や意図があらわである場合もあれば客観的な状態を示す場合もあります。例えば「石が動いた」という表現において、普通人は石が自分の意思で動いたとは考えず、実際には何かの力で動かされたものと思うでしょう。ところが「石が移住した」と言った場合、石が自分の意思で動いたような印象を与えます。英語でも普通にその辺の石ころなどの移動にmigrateという言葉は使わないと思いますが、使ってもそれほど不自然ではないようです。簡単な検索でも医学的に結石の移動にmigrateが使われることが分かります。すでに述べた通り、自然界における化学物質の移動にはmigrateが普通に使われているわけで、例えば日英用語辞典で調べてみると、migrationは、自然科学と社会科学を問わず、実にあらゆる分野で多様に使われていることが分かります(社会科学では例えば資本移動など)。それらの殆どは日本語訳として「移動」が充てられいます。とすればmigrationは本来、基本的に「移住」よりも「移動」に相当するのだろうかという見方もできるので、逆に「移動」の英訳を同じ辞書で調べてみると、化学物質の場合にはやはりmigrationですが、光や音の場合はtravelが使われるようです。光や音になぜtravelが使われるのかを考えて見ると、たぶん、というか間違いなく移動距離の大きさでしょう。なんといっても人間の場合にtravelが使われるのは長距離移動の場合ですからね。ですから光や音にtravelが使われるのは間違いなく人間的な意味合いが込められていることが分かります。この点で日本語の移動は英語のmoveと同様、遥かに抽象度が高く、生物にも無生物に使えるような普遍性あるいは客観性を持っていると言えます。このように英語ではいわゆる無生物主語構文から一般の他動詞、さらには一般の自動詞にいたるまで擬人化的な表現が浸透しており、すでに述べたように民族性とか国民性とは別の、言語に固有な擬人化傾向とでも呼べるものがあり、これを言語的擬人化と呼ぶことができるように思います。この種の擬人化は、神話や芸術などにおける擬人化やイリュージョンとは区別すべきでしょう。また、日常言語よりもむしろ学術的な言語表現で多く見られ、特に近代科学と言われる物質科学的要素が強い自然科学系の学問の発達と展開に影響を与えてきたのではないでしょうか。

(次回に続く。2020/08/14 田中潤一)

 




2020年8月3日月曜日

「分析」と「予測」を、自然科学と人文社会科学との対比において考える ― その2

予測分析という概念への疑問、および遺伝子分析と呼ばれるものへの危惧について

(前回の文脈で引き続き考察を進めたいと思います。)

情報科学分野でデータ分析において予測分析という概念が用語として確立され、普通に使われているにしても、情報科学、あるいは情報工学、コンピュータサイエンスという学問分野自体、本質的に技術志向的で、純粋な学問とは言えない側面が強いように思われる。一般に情報科学関連の理論は高度に論理的、数学的で、とくに私などには苦手で近寄りがたい印象があるが、反面、ご都合主義的な面が強い印象がある。個人的にはかつて放送大学で、辛うじて「可」をとれる程度に勉強した経験があるだけだが、そういう印象を持っている。端的に言って、プログラムを効率的に作成することが目的であって、困難あるいは解決不可能にみえるような問題は飛ばして見えなくしてしまうようなところがある。そういう次第で、用語の概念を深く掘り下げるようなことはあまり追及しないような印象を持っている。

専門的な情報理論を離れて、分析という概念の本来的意味を考えてみると、カント哲学による有名な分析判断と総合判断の区別を思い起こせばわかるように、分析の対象は、どう考えても、既存のデータであり、予測値のように未来の、すなわち現在存在していないデータが対象であるとは考えられない。定量的な予測が可能であるとしても、それは分析によるものではなく計算である。前回最初に例に挙げたように天気予報は数値予報と呼ばれていたし、日食の予測は、計算によるものであった。

もちろん、以上は個々の予測分析と呼ばれる成果物の価値とは関係のない話である。一般に予測分析と銘打たれているからといっても情報科学の定義と手法をそのまま使っているわけでもなく、単に予測と分析という二つの言葉を組合わせているだけであるかもしれない。ただ、全体として予測を述べる作品であれば、日本語的感覚で言えば、こういう熟語ではなく「分析と予測」あるいは「分析・予測」というような表現が妥当ではないかと私自身は考える。

さらに言えば、情報科学、コンピュータサイエンスと呼ばれるものは科学ではなくあくまで技術的な工学であり、マーケティングでもあることを十分に見据えておく必要があると思う。


もう一つ前回記事の最後の方で触れたことで、より深刻に思われる問題は、予測との関係ではなく分析自体における自然科学的な要素と、人間科学的な要素の共存という問題である。この問題は遺伝子分析において端的に現れているように思われる。

そもそも遺伝子という概念自体、物質的側面と、人間的な意味的側面の両面を持っている。つまり、化学成分や分子構造といった量的で幾何学的な要素と、身体機能とか人間的な性質という要素である。機械的にデータ分析できるのはあくまで量的で幾何学的な要素だけである。個々の物質的要素に機能的要素が割り当てられているとはいえ、言葉の意味、単語の意味を考えて見ればわかるように意味というのは流動的であり、具体的に話し言葉や文章として使われて初めて意味をもつのである。意味の分析についていえば、今ではある程度の機械翻訳も可能になったようだけれども、その使われ方を見ると、多くは簡単な会話の補助として使われる程度で、絶えず人間同士で相互に検証されながら、あるいは確認しながら使われるケースがほとんどだろう。文章の翻訳に使われる場合があるにしても人によるチェックを欠かすわけにはゆかない。

という次第で、私は遺伝子分析という概念や技術の進展に相当な危惧を抱いている。もちろん以上のような問題は遺伝子分析に限ったわけでもないし、同時にまた遺伝子分析の価値と可能性を否定するわけでも認めないわけでもない。ただ暴走が大いに危惧されるのである。