2008年6月14日土曜日

前回に続けて

このブログを始める直接の発端は、はてなのブログ「発見の発見」で取り上げたニューヨークタイムズの記事に対して頂いたコメントから、クオリア問題へ注意が向けられたことだった。これは前回の記事でとりあげたとおりである。しかし、正直なところ、このニューヨークタイムズの記事自体はそれほど精読したわけでもなく、それ以後も繰り返して読んではおらず、内容もよく記憶してはいなかったのだが、前回の記事を書いた後に改めて読み直してみて、蒼龍さんから頂いたコメントや氏のブログにおけるクオリア論で言及されている事柄の幾つかが明らかになった。またそれ以外のクオリア論、茂木健一郎氏のクオリア論もインターネット上で上で一部を読むことができた。もっと早く読むことも出来た筈だが、結局は怠けていたということだろう。

ニューヨークタイムズのこの記事 "Mind of a Rock "http://http://www.nytimes.com/2007/11/18/magazine/18wwln-lede-t.html?ref=science
では最近の汎心論に関わる哲学者として、アメリカの哲学者 Thomas Nagel、オーストラリアの哲学者David Chalmers、オクスフォードの物理学者Roger Penrose、そしてにはイギリスの哲学者Galen Strawson の名前を挙げている。これらの学者の著書の中で最も新しい、Galen Strawson の“Consciousness and Its Place in Nature,”という著書が、直接にはこの記事に繋がっているのだろう。というのも新聞記事として最近の話題を取り上げるのは当然のこどだし、はっきりと汎心論を全面に掲げて"Galen Strawson defends panpsychism against numerous critics"といっているからである。Galen Strawson という哲学者はそれほど有名では無いようだ。あまり他で言及されていない。有名なのはチャーマーズとペンローズのようだ。たしかに何処かで聞いたことのある名前ではあった。

このウィキペディアなどである程度分かったことは、茂木健一郎氏も蒼龍氏も、チャーマーズの著書の影響を受けたり、あるいは評価したりしているが、影響の受け方、評価の仕方が異なっているということのようだ。蒼龍氏から見れば茂木氏はチャーマーズのような徹底さと厳密さが欠けていて、間違って飛躍した想定を行っているということであろう。

チャーマーズ自身は汎心論に与している訳ではないと、ウィキペディアなどには書かれているが、このニューヨークタイムズの記事では汎心論に与しているように受け取れる。1行言及されているのみだから何ともいいようがないが。チャーマーズの、この問題の著書は、蒼龍氏によれば「ゴリゴリの分析哲学」で、翻訳があるものの相当手強いものであるらしい。それはともかく、色々な言及をみてみると、チャーマーズ自身もクオリアという言葉とその概念を重視していることには間違いは無いようだ。できれば読んで見たいが、そのような「ゴリゴリの分析哲学」でなくとも別の行き方でも、汎心論問題にアプローチできるのではないかという気もする。

以上の文脈でのことは今のところお預けと言うことにしておいて、今のところ、だいたい毎日少しづつ、ウンベルト・エコの「テクストの概念」をよみ、電車に乗るときには最近の文庫本で中沢新一著の「チベットのモーツアルト」を読んでいる。こちらの方は難解な比喩の羅列ばかりが延々と続き、さっぱり分からないが、それでも慣れてくると、特に退屈することもなく、淡々と字面を読み進むこと自体は可能であるのは面白い。昔、中沢氏の別の本を買っては見たものの、難解なだけでさっぱり興味がわき起こらなかったためにこの有名な本のことも敬遠していたのだが、たまたまつい最近、手元にあった1000円の図書カードを使おうと思い、手頃な文庫本を探しているときに見つかった。「意味」そのものについて難解な象徴を使って繰り返して繰り返し論じているこの書物は論理学上の、あるいは言語上の意味論と言えるのかどうかはさっぱり分からないが、エコも、意味は神秘的なものであると言っている。

2008年5月12日月曜日

意味とクオリア

クオリアという言葉とその意味とを知ったのはつい最近のことである。

一昨年から昨年にかけてだったか、NHKテレビで今もやっている「仕事の流儀」という番組を、続けて見ていた時期があった。 最初にこの番組を見たとき、この番組キャスターの茂木健一郎さんの話しぶりは好感が持てたし、インタビュアーとしてのゲストへの質問とコメントも充実した内容で聞き応えがあるように思われたのだけれども、いつも最初に、枕詞のように「脳が考え、脳が感じ・・・」と、脳を主語にしたフレーズを連発されるのには辟易し、感情的で申し訳ないが、その後の番組の内容を聞く楽しみも割り引かれてしまうのだった。 その後この番組はゲストによって見たり見なかったりしたが、時間帯が変わってからは見なくなってしまった。 少なくとも当時は、番組の内容自体は面白かったが、ただ、毎回聞いているうちに、音楽あるいは音響効果なども使った演出とナレーションが鼻について来たこともある。 とにかくこれがきっかけとなって、著書を買って読むことはなかったが、インターネットで茂木さんのブログなどを見ることがあった。 そこでクオリアという言葉を知ることになったのだけれども、ブログではどのページでも、そのときに見た限りにおいて、クオリアの意味についての説明はなかった。 しばらくは特に気にしていなかったのだが、あるときに、たぶんウィキペディアで、その意味を調べ、それが「感覚質」と訳されるもので、色などの感覚内容のことだと知ることになった。 ちょうどその頃、はてなで公開しているブログ・発見の「発見」のある記事に、ハンドル名を蒼龍さんという方からコメントを頂き、そのコメントの中で、氏のブログ中のクオリア論を紹介されたのをきっかけに、クオリアについてさらに考える様になった。 氏の、そのクオリア論は茂木さんのクオリア論の批判として展開されていたことも興味をひかれた理由になっている。

『日本の俗流クオリア論を撃破する http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20071114/p1』(2008/03/13 00:29)』

そのクオリア論で蒼龍さんは、茂木さんのクオリア論を批判したうえで、クオリアの存在は科学的に意味が無く、哲学的にも重要ではないという趣旨を述べておられる。 私は「脳がクオリアを生み出す」という表現にも違和感、抵抗を感じるのだが、クオリアを蒼龍さんのように無意味なものとも思えないのである。

蒼龍さんの同じブログで4月1日の記事で「クオリアが脳に影響を与える」という現象があり得るかどうかが問題になっている。

クオリアが脳に影響を与える??
http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20080401 

これは経緯から、飲茶さんという方のサイト:
哲学的な何か、あと科学とか
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/gakuFrame.html

で述べられている事に対する論評と思われ、このサイトで問題にされている「クオリアが脳に影響を与える」という現象は定義上ナンセンスであるとしている。 定義という言葉の意味そのもののが抱える問題はさしおき、私には「クオリアが脳に影響を与える」というのは無意味とも思われない。 ただ、「脳がクオリアを知る」という表現には抵抗を感じるのであるが。

このサイトで例として引かれている現象、すなわち、赤信号を見て危険を感じ、行動に変化を生じるという、ごく普通の人の行動を物理的に説明するのに、特にクオリアを持ち出す必要がないということは、両者とも一致している。 ところが飲茶氏の方は「脳がクオリアを語る」、「脳がクオリアの概念を知る」、あるいは「脳がクオリアに気づく」、といった表現から、クオリアの存在自体と「クオリアが脳に影響を与える」ということ自体は疑えない事だとしてそれ以後の議論を進め、メカニズムは謎であるものの、物理的に脳がクオリア発生することを認めざるを得ない事としている、と説かれているようである。 ここでは「クオリアが脳に影響を与える」という問題から「脳がクオリアを発生する」という問題への転換が見られる。 これをフィードバックのメカニズムで説明されているようであるが、このあたりはよく分からない。

この議論ではクオリアが存在するとすれば、それは脳が発生したものでなければならないという前提にとらわれているような気がする。 当然のことながら、仮に、心は脳から単独に発生するものだという帰結が約束されているとしても、依然として心と脳とは全く独立した別物である。 別ものである心と脳との関連に関する仮説に過ぎない。 性急に、心が認識するところのものであるクオリアが脳から発生するものだというような結論を下す前に、クオリアが脳に影響を与えるという可能性について、もう少し多面的に検討してみる方が、またクオリアの意味を深めること、精神生活のなかでクオリアの存在の意味、クオリアの存在を前提とせずに心理現象、精神生活の豊かな考察が可能だろうかという問題に対してもっと幅広く考察することの方が当面は重要な事なのではないかと思う。 もちろん脳からクオリアへの影響あるいは寄与(脳がクオリアを発生するということではなく)があるということは当然のことである。 だから、クオリアがどこから来るのかといった問題は後回しとし、クオリアと脳との相互関係といったものが有るかどうかを多面的に、説得力を持つように証明し、あるとすればどのようなものかを研究することが当面の課題として興味が持たれるところではないだろうか。

色彩はもちろん、イメージそのもの、また音、音色、その他諸々の感覚内容を伴う心の状態と脳との関係を考える場合、上記の赤信号とそれを見て影響を受ける人の行動のような例の他に、全く性質の異なった現象がまだまだ、色々とあるはずである。 まず記憶という問題がある。 記憶があるならまた当然、想像力という心の働きがある。 さらに、幻覚、夢、また可能性として神秘体験といわれるものもある。 こういったものをクオリアの存在を前提とせずに考え得るかどうか。

また心理的な色彩学とか音楽理論とか、そういったものもクオリアの存在と有意味性、重要性を前提とせずに成り立つかどうか。

一方、共感覚というものがあるといわれる。 特定の音から特定の色を知覚したりする、要するにある感覚の特定の内容が異なった感覚の特定の内容を呼び起こすという現象である。 この現象は脳内の異なったそれぞれの感覚に対応する回路がつながっていることから起こると説明されており、確かにそう考える事は分かりやすい。 しかしこれも具体的に、正確に分かっているとは思えず、ただそう考えると分かりやすいということではないだろうか。 ウィキペディアで見た範囲だけれども、共感覚の場合は実際に感覚器官に刺激が生じている訳ではないらしい。 この現象を異なった感覚のクオリア同士の接点のようなもので生じると考えること、あるいはクオリアの領域内で生じている現象であって脳機能が関わっていないというような仮定も出来るはずである。

さらに重要な場合として、言葉とコミュニケーションが介在する場合がある。 先の赤信号の例を用いれば、盲目の人(先天的な盲人と後天的な盲人両者を想定する必要があるが)に対して、「赤信号だよ」と教えたりする場合である。 こういう場合、例えば赤という言葉の意味は何かと考えれば、それは時と場合とによって様々なニュアンスがあろうけれども、基本的にはそれは「赤のクオリアだ」としか言いようがないのでは有るまいか。 そしてこの言葉が盲人の行動に影響を与えたとすれば、紛れもなく「クオリアが脳に影響を与えた」ということが出来るのではないか。 当然、先天的な盲人の場合はどうかが問題になる。 先天的な盲人の場合、目下のところ、赤の意味は赤の想像であるとしか言いようがない。 いずれにしてもこの場合の「意味」内容は物理現象であるとも、生理現象でもあるとも言えないと思うのである。

2008年4月21日月曜日

最初に、

三つの出会い、あるいは契機

ⅰ意味論

大学時代、最初に購入した論理学の教科書「論理学概論」(近藤洋逸、好並英司著、岩波書店刊)は、途中までは何度か学習したものの、拾い読みは別にして、最後まで読み通すことは今に至るまで無かったのだが、末尾に掲載された多数の文献集は何となく眺めたことが何度かある。その多数掲げられた文献集の最後の数行に意味論の文献紹介があった。それまでに掲げられた文献に比べると極端に少ない。少ないだけではなく「その他」のカテゴリーに含められ、さらにその最後の数行なのである。その部分は次のようなコメントで始まっている。「本書では省略した意味論(記号論)に関するものを挙げておく」。そして数冊の英語の書物のリストで終わっているのだが、その中に一冊だけ翻訳されているものが紹介されていた。
Langer., S. K. : Philosophy in a new key,(1957) (矢野・池上・貴志・近藤訳:シンボルの哲学 岩波書店)
この本は大学時代に一通りは読み通した数少ない哲学書の一つになった。

この論理学教科書の本文では、前書きも含め、意味論という言葉は一切出てこない。「意味」は索引では一度だけ出てくるが、その箇所は、冒頭のページで「内包または意味という」というフレーズだけであった。その後は全て「内包」が用語として使われている。

末尾の文献集で「本書では省略した・・・」と書かれている以上、本来は意味論も論理学に含まれるべきものであることが暗黙のうちに了解されるのであるが、それにしては本文で全く触れられることがないというのはどういうことであるのか、当時はそれほど意識して考えた記憶はないがが、後になって考え込んだことがある。これは授業でも同じことであって、実は大学教養課程での論理学の講義を受けた経験は、教養課程一年だけで中退した大学を含めて二回あるのだが、どちらの場合も論理学の授業中に意味論に言及されたことは全く無かったのではなかったか、と記憶している。

しかし当時、上記「シンボルの哲学」を購入して読んだということは、たまたま入手しやすい翻訳本があったことも理由ではあるけれども、やはり私は当時から意味論に惹かれていたらしい。この本の末尾の方に著者が影響を受けた学者を何人か列挙している箇所があった。そこにはショーペンハウアー、ニーチェ、フロイト、カッシーラーが含まれていた(今手元に本がないので確認できないが)様に記憶している。これらの人物の著作も、私がこれまでに読んだ、本当に数少ない哲学書 ― フロイトの場合は哲学書ではないのかも知れないが ― に含まれている。カッシーラーはこの本で触発されて読んだのかも知れないが、その他は必ずしもそうではないと思う。私は常に意味論につながるような傾向には相性が良かったのかも知れない。

とはいっても、専攻していたのは哲学でも心理学でも言語学でもなく、地質鉱物科学だった。その地質鉱物学の勉強に際しても、どうも勉強の要領が悪く、色々と余計なことが気になった。とくに言葉の問題 ― 具体的には覚えていないが ― が気になることが多く、将来、科学と言葉の問題について専門的に考えてみたいと思うようなこともあったが、職業的にそういうことが実現できる可能性もなく、色々と迷い続ける間に時間が経過し、卒業、就職という時期を迎えることになった。

1990年代初め、あまり科学技術とも思索とも関係のない、時間ばかりを消耗する仕事を続けていた時期に当たるが、それでも散発的に買い求め、殆ど積ん読状態になっていた本の中に、意味論に該当する、少なくとも二つの書物があったのを今取り出してきて、最初から読み始めたり、拾い読みしたりしている。ひとつはウンベルト・エコ著、谷口勇訳、「テクストの概念」。もう一つは雑誌「imago」の「認知心理学への招待」特集号。後者は拾い読みで終わりそうだが。


ⅱゲーテ

大学時代の鉱物学主任教授が、口癖というほどではないが、よく口にされていたフレーズは「科学は人間性を疎外しますからね・・・」というものだった。この言葉は私にとって理解のある有難い言葉に思われたが、必ずしも専門の学業に励むための激励の言葉にはならなかったかも知れない。そのことはともかく、その先生はゲーテのファンであった。また、ショーペンハウアーを偉大な哲学者として評価する人でもあった。
私は、当時はゲーテの科学に関わる文章を読むことはなかったのだが、ずっと後になって、どういう訳か、当時やっていた仕事が不景気で暇になってきた頃にゲーテの色彩論その他を読むことになった。ちょうどその頃、岩波文庫版のゲーテ色彩論が再版されていて、書店で見つかったからかも知れない。これとそれ以外に他社から出されていたゲーテの科学論文のアンソロジーなども少しは読んだのだが、これらを読んだことは重要な体験となった。。

ゲーテ色彩論でゲーテが特に口を酸っぱくして述べているように思われたのは、特に科学と言葉との関係であるように思われた。岩波文庫版の色彩論ではゲーテの色彩論そのものについての文章はそれほど多くを占めてはいなかったように思う。

言葉は全て比喩であるのに、近代科学では比喩が定義という形で固定化されて一人歩きするようになったことによって問題が生じてくる、というのが大ざっぱな要約といえるかも知れない ― 私の勝手な要約だが。

当時時々行くことのあった日比谷図書館に古く大部なゲーテ全集があって、ある時、科学論集を含む巻もあったのをのぞいてみた。それにはハイゼンベルクがゲーテの科学について述べた文章が収められていた。その巻の解説には、ハイゼンベルクはゲーテの科学論文をひもとくことによって不確定性原理を確立する一つのきっかけとなったのだ、といったことが書かれてあったが、そのハイゼンベルクの文章そのものにはそういったことは何も書かれていなかった。むしろゲーテに対する批判になっていると見られる箇所も多いように思われた。少なくとも単純にゲーテを礼賛しているわけでは無かったが、しかし、遠い将来にはゲーテが望んでいたような科学が行われる時代が来るのだというニュアンスをにおわせることによってゲーテの科学を支持するとも言える内容になっていたといえる。少なくとも当面はゲーテが望んだような科学ではなく散文的で退屈で数学を駆使した骨の折れる精密科学に精を出さなければならない時代が当分は続くのである、と。これを見るとハイゼンベルクは科学を固定的に考えていなかったことが分かる。古代には古代の科学があったし、未来には未来の科学がありえる。ゲーテにはゲーテの科学があった。現代は近代科学、あるいは現代科学の時代である――ここでは精密科学という表現が使われていたが。もちろん科学は真理そのもででもないし、どんな科学にも間違いはありえる。場合によれば想像や思い違い、あるいは悪意あるねつ造などもあるかも知れない。しかし科学は骨董品のように、本物があって偽物があるといったものではないのだ。――もちろんこの部分は当の論文に書かれていたことではない。

このハイゼンベルクの文章はたしかに感銘深いものであったが、不満であったのは言葉の問題、ゲーテの重要なテーマである科学と言葉の問題には直接触れられてはいなかったことであった。


ⅲ情報科学・技術と脳科学

当時はバブル崩壊後の不況もあって仕事に行き詰まると同時に、一方ではパソコンが急速に普及し始めた時期でもあった。そういう状況だったから、何が何でもコンピューターに関する知識は必要だと思い、放送大学で「情報工学」と「プログラミングの基礎」を受講した。どちらも十分によく学習することが出来たとはとても言えないが、このときの教科書は教科書として内容が濃く好感も持てるものだった。個人的な動機、目的や成果などはこの際どうでもいいことだが、この時の教科書を部分的にでも読み返すたびに考え込んでしまうことがある。それはコンピューターサイエンス、情報科学等はいったい科学上の分野としてはどういう位置にあるのか、という問題である。この教科書の冒頭にも情報工学という名称について、これに類する日本語と英語のおびただしいネーミング例が挙げられている。既存の伝統的な科学分野を参照して考えると、論理学、数学、と重なる部分や、隣接するとも言える部分があることは間違いがないが、それ以外に言語学とも近い部分があることも、どうしても受け入れなければならない。実際プログラミング言語は言語と呼ばれている。

実はこの「プログラミング言語」という言葉、これを「言語」と呼ぶことには当初から違和感、あるいはそれ以上の反感さえを持ち続けてきた。書店のコンピューター書籍売り場やソフトウェアの売り場などで「言語」という分類を表示したコーナーなどを目にする際には不快感さえ感じてしまうのだった。教科書にはどこかに「プログラミング言語が言語であることは証明されている」といった記述があったように思う。言語の定義からそういうことが言えるのだろうが、定義そのものの意味もそう確かなものではないことはこの教科書自体にも触れられている箇所がある。

しかしこの反発は単に感情的なものかも知れないし、何らかの統一用語は避け得ないものだからそれが嫌いな言葉でも仕方がない。しかし、例を挙げると、機械言語とは「機械が読み取ることが出来る言語である」とか、「機械が理解できる言語である」といったような表現になると、これはどう見ても擬人的な表現になっていると思うのだが、専門家を含めて一般的にもこういう表現が擬人的な表現とは意識されていないということにも気持ちの悪さを覚えるのである。というのは放送大学の受講中に何回か教授に質問することが許されていたので、情報工学または業界では擬人的な表現が多く使われることについてコメントを求めたことがあるのだが、その際に教授から「私は特に擬人的な表現が多いとは思いません」という返信を頂いたからでもある。

考えてみると擬人的な表現は比喩一般と同様、日常言語のあらゆる局面に充満しており、何度も使われるうちに比喩であることが意識されなくなっている。科学技術の用語でも同じことがあり、それがまさにゲーテが問題にしていることの一つであると思われたのである。

脳科学でも以前から似たようなことが気になって仕方が無かった。

脳の働きについては例えば、「最近になって脳の機能が解明されてきたので脳と心との関係が解明出来る時が来つつある」といった類の表現は、マスコミの科学報道や書籍の宣伝などでよく耳にする言葉であるけれども、こういう表現はもうかなり前から、昔からといっても良いと思うが、繰り返し使われてきたような気がするし、これから何十年先になってもこういう表現が使われ続けるのではないかと思うことがある。もちろん具体的な部分では、また応用的な部分ではめざましい進展があったに違いないが、核心の部分ではそんなには変わってもいないのではないかと思うようになり、以前は脳科学の本も購入して読もうとしたこともあったけれども、最近は興味を持たなくなっていた。しかし世の中ではコンピューターの発達と平行して脳科学への関心がますます高まっているように見える。これは技術面、応用面の広がりからいって当然ではあると思うのではあるけれど。

情報科学と同様に脳科学でも、比喩と擬人的な表現が至る所に充満し、気づかないところにも潜んでいるように感じられる。脳科学ではコンピュータを脳の比喩に用い、情報科学では脳をコンピューターの比喩として用い、この両方向の比喩が錯綜している。一方が他方の言葉を比喩的に用いているときに、その表現の内部に逆向きの比喩が潜んでいたりする。ということで、小さな本でも、そういうところで躓き、先に進めなくなってしまうのだった。

コンピューターサイエンスの方は、技術的に成果が上がれば、基本的にはそれで良いわけだから、技術的に有効ならどのような考え方も「有り」かも知れない。またコンピューターそのものは無機物であって明らかに人間ではないのだから、擬人的な表現とは見なさない立場に立っていたとしても、少なくとも見かけ上の擬人的表現を見つけることは容易である。だが脳科学ではそうではない。脳は臓器であって人間の身体の一部である故に、擬人的な表現が使われていても擬人的表現とは見えにくい。


ウェブサイトとブログの開設

一昨年の秋に、はてなのダイアリーで『ブログ・発見の「発見」』を開設しました。これにはり利己的な理由を含め幾つかの動機がありましたが、形式としては、ウェブ上の日本の三つのニュースサイトとニューヨークタイムズ、およびBBCニュース、それぞれの科学・自然のセクションの中から発見のニュースと言えるものをリストアップしてホームページに掲載した上で、ブログでコメントするというアイデアでした。もちろん私は科学上のどの分野でも専門的に論評出来る見識を持つわけではありません。ただ、一般人の立場で、特に言葉と意味にこだわり、科学と言葉、意味について考えさせられるケースを集めて、考える材料にしてみたかったことが基本の動機になっています。そこではニュースサイトの科学ニュースを題材にするという制約を掲げていますので、それとは別に、特にそういう制約を設けずに、主として科学上の意味にまつわるちょっとしたメモや、あるいは多少まとまった断片を書き留め、望むらくは考え方は異なっていても同じ興味をもって見て頂ける方々のコメントをも期待する目的で、こちらにも新たに、意味について考えるブログを設けました。読書ノート、あるいは読ウェブ・ノートの様なものから、スポット的な思いつきや提案など、何でもありのつもりでやってゆきます。いずれにしても困難な、哲学的な意味論より、『発見の「発見」』と同様に具体的な事例に傾きそうです。