2010年11月1日月曜日

縦書き及び横書きの機能性の差異と鏡像問題 その2 ― 両眼視差の問題

はじめに、鏡像問題に関する新しい記事を「ブログ発見の発見」の方に書きました。関連しますので、最初にリンクしておきます:鏡像問題と「虚像問題」http://d.hatena.ne.jp/quarta/20101030#1288457496 こちらの記事は、大阪府立大学名誉教授の多幡先生から贈呈いただきました論文集にちなんでこの問題を再考したものです。

さて、縦書きと横書きの機能性と鏡像問題との関連についての、前回よりの続きです。

前回、生物、この場合は人間の感覚、特に視覚にとって前後、縦方向と横方向の質的な違いで、縦書きと横書きに関して以下のような事柄が説明できる可能性について言及しました。
1)  アルファベットによる英語などのヨーロッパ言語の記述が横書きでなければならないこと。
2)  数式が横書きに適していること。
3)  漢語、ハングル、そして日本語などは縦書きも横書きも可能であるが、横書きの場合は左横書きも右横書きも可能であること。
4)  横書きにおける有利さを比較した場合、漢語や日本語よりもアルファベットによるヨーロッパ言語の方がより有利であること。しかし、工夫によってはこれは改善できる。また漢語やハングルに比べて日本語の方が横書きにも有利である可能性がある。
5)  漢字仮名交じりの日本語は横書きの場合も縦書きの場合も漢語やハングル、あるいは仮名のみによる記述よりも有利であるが、この有利さは横書きにおいてより大きく作用する。
6)  縦書きの段組は横書きの段組に比べて短い場合が多いこと。
7)  横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性、確実性に優れる可能性がある。

これらの事柄は大体すべてが現在実際に実行されている事ばかりです。そして何となく直感的に納得できるような事が多いようにも思われますが、しかし、問題なく納得できるのは上の3つまででしょう。その三つ目、中国語、ハングル、日本語は現在縦書きと横書きが併存しているというのはもちろん、現状で実行されていることですが、歴史的には日本語や中国語の横書きは外国語の影響が入るまではなかった事、そして今後はすべて横書きに統一されるであろうと予測する人や動きもあることから、このあたりの問題には自明でもなく、可成り微妙な議論の余地があることが分かります。その意味でこのあたりの事情を理論的に明らかにしておくことは重要であると考えます。

上の二つの項目について、英語など、 なぜ横書きが自然なのか、数式もなぜ横書きが自然なのかということは自明であるだけに何故そうなのか、と理論的に説明されることはあまり無かったように思われます。数式が横書きに適していることなど、誰でも直感的に分かることですが、何故そうなのか?という事の説明は、少なくとも私は聞いたことがありません。前回参考にした「横書き登場」にも何故そうなのか?という理論的な説明は見出されなかったように思います。

一方、鏡像問題の方は、「なぜ鏡像の左右が逆転するのか?」という設問で古くから議論が行われてきたそうです。この問題をブログ「発見の発見」http://d.hatena.ne.jp/quarta/ で取り上げたきっかけになった毎日新聞の記事の冒頭は次の様に始まっています。「鏡の前で右手を上げると、鏡の中の私は左手を上げているように見える。なぜ鏡の中では左右が反対なのか。この問いかけは、古くはギリシャの哲学者、プラトンが考えたと言われるほど長い歴史を持つ。現在も認知心理学と物理学の両分野で、国際的な議論が続いている。」
何故、「何故鏡像の左右が逆転するのか?」という疑問が古くから議論の対象とされてきたのに対して「何故アルファベットで記述する言語は横書きなのか?」とか「何故数式は横書きなのか?」といった疑問は古くから議論される事はなかったのでしょうか。たぶんこれはヨーロッパのアルファベットで記述する言語にとって、自然にそうなったまでであり、理由など考えるまでも無かったのではないでしょうか。しかし本来縦書きであった日本語にとって横書きも可能であることがわかった現在、この種の理論的な説明が求められるようになってもおかしくないように思います。

もう一つの理由として、鏡像問題の場合は光の反射という、物理的な現象を含んでいるということもあると思われます。光線の反射の問題が関わっていることが明らかであり、それを検討した上でなお解明されない部分が残るということに気付くことから物理的現象と心理的現象との関わり合いについて議論が展開されてきたようです。

前回はその、鏡像問題から物理的な部分を差し引いた心理的な、あるいは認知的な要素が縦書きと横書きの機能性にも関わっている事を述べ、具体的に今回冒頭に掲げた各項目について説明する予定を述べた次第ですが、その前に、この縦書きと横書き問題にも、構造問題とは別な、何らかの物理的ないし生理的要素が関わっていることが明らかですので、今回はそのことについて検討して見たいと思います。

その物理的ないし生理的要素というのは、既述の屋名池誠著「横書き登場」にも取り上げられていましたが、眼球運動の問題、それから両眼が横向きに並んでいることの影響はどうかという事になるでしょう。この問題に付いては「横書き登場」における記述次の様に至って簡潔にまとめられています。
「<眼球運動> 上下左右で差はない」
「<両眼の視力分布> 横書きでも片眼の視野で十分なので横書き有利と言う事はない・・」
「<文字を見分ける視野> やや横書き(有利?)」

このなかで眼球運動については「上下左右で差はない」とだけ書かれているのですが、この比較のしかたはあまりにも単純ではないでしょうか?というのは、上下の動きと左右の動きは単純に早さを比較できるようなものではないと思われるからです。それは、両眼には視差というものがあります。この比較で気になるのは、左右の一つ一つの眼について縦横の動きを比較したのでしょうか、それとも両眼で比較したのでしょうか。それが気になります。両眼で比較する場合、その場合左右の視差、眼球運動に関しては輻輳角度というものがあります。上下運動の場合は左右の輻輳角度は同一に保たれたまま上下に眼球運動が行われますが、左右の運動の場合は、動きは左右で対称ではありません。下に簡単な図を書いてみました。




片眼の場合は簡単ですが、両眼をAからBまで動かす場合と、CからDまで動かす場合では単純に速さを比較するだけで良いものでしょうか?正確さというものが問題になってくることはないでしょうか。また眼や脳にストレスがかかるという事はないでしょうか?横の動きの場合、英語と日本語ではどちらに向いているでしょうか?

仮に両眼の視点を常に一致させながら眼球を動かさなければならないとすると、横に動かす場合は縦に動かす場合に比べて相当にストレスがかかるのではないかと思われます。必ずしも正確に一致させながら動かす必要は無いかも知れませんが、そういう場合には英語と日本語ではどちらに有利に作用するでしょうか。

前記7項目の各論に移る前に、以上のような視差の問題を提起しておきたいと思います。

2010年10月11日月曜日

縦書きおよび横書きの機能性の差異と鏡像問題

以前から、文の縦書きと横書きについて考えていたことをまとめてみたいと思っていたのですが、この問題に付いて特に専門的な研究や発言をフォローしてきたわけではないので、一般的な現状認識がどのようなものであるのかを知りたいと思い、手頃な参考書として次のの本を見つけて一読してみました。横書き登場』、屋名池誠著、岩波新書

膨大な資料を網羅してまとめられたこの本によって日本における縦書きと横書きの歴史的な推移についてはほぼ見通せるようになっていると思います。ただ、縦書きと横書きそれぞれの機能性については、「結局、縦書き、横書きには殆ど優劣の差はないといえよう。」と結論づけられているように、「優劣」という観点で包括的に捉えられ、縦書きと横書きそれぞれの持つ機能的な個性、特質については掘り下げられることが少ないように思われました。個々の問題に付いての優劣の比較はともかく、何事も最終的に「優劣」の比較で結論づけるという行き方には問題があるように思います。総合評価としての抽象的な優劣の比較は、よほど大きな差が無い限り行ってはならない事だと思います。優劣はすべてケースバイケースで具体的に判断すべきものと思います。ただ、この本の場合は「優劣はない」という結論になっていることは救いだと思います。


優劣という評価を離れた、縦書きと横書きそれぞれの特質という面で、この本の中で最も興味深く思われた箇所は、日本の江戸末期に本格的な横書きが登場するようになってから左横書きが定着するまでの期間に生じた右横書きと左横書きとのせめぎ合いについて考察された部分です。このことの前提としてまず、縦書きの場合は実用上、上から下に向けて読み書きする以外にあり得ないのに対し、横書きの場合は右から左に読み進む右横書きも左から右に読み進む左横書きのいずれも可能だという事実があり、このことはこの本でも論じられています。この事実こそが、縦書きと横書きそれぞれの最大の特質につながることなのであり、さらに深く掘り下げることが必要なのです。

横書きの場合に左横書きと右横書きの何れも可能であるのに対し、縦書きの場合は実用上、上から下への方向しか取り得ないという事実は、鏡像問題、すなわち鏡に映った鏡像の左右が逆転して見えるという現象とまったく同一の原理に由来している。

1つの結論から言って、横書きの場合に左横書きと右横書きの何れも可能であるのに対し、縦書きの場合は実用上、上から下への方向しか取り得ないという事実は、有名な鏡像問題、すなわち鏡に映った鏡像の左右が逆転して見えるという現象とまったく同一の原理に由来していると言って差し支えありません。

鏡像問題について

鏡像問題という言葉がどういった種類の言葉であるのか、どういった分野あるいは学会または業界でどのように定義されて通用しているのか、よく分かりませんが、過去に新聞の科学欄にこの話題が掲載され、鏡像問題というテーマの下に心理学と物理学の研究者による研究が現在に至るまで発表され続け、専門の学術誌もあると言う事を知りました。それまで心理学方面で鏡像認識という術語があることは知っていました。これは人間や動物が鏡像を見て自分自身の姿であると認識できるかどうかという問題のようですが、鏡像問題の方は鏡像では現実と左右が逆転して見えるのは何故か、という問題のようです。しかし、鏡像認識の問題も鏡像問題に含まれることもあるようで、この場合は広義の鏡像問題とされ、左右が逆転して見える問題は狭義の鏡像問題とされるようなので、とりあえず虚像問題は鏡像の左右が逆転して見えるのは何故かという問題とみなして良さそうです。この問題に付いて、上記の新聞記事、ネット版毎日新聞の記事に触発され、この問題に付いて当時以前に考えたことや、当時改めて考えたことをブログに書いて公開しました。このブログ記事は、当のブログ記事の中では比較的多くのアクセスがあったようです。

この問題は基本的には次の様に整理できるように思われます。

1.鏡像の空間は現実の空間に対して、空間を構成する縦、横、および前後方向の3軸の中の1つの方向が逆転する。
2.逆転する軸方向は縦、横、および前後の何れともみなすことができるが、人は普通、それを横方向、すなわち左右方向に充てる。

問題は何故それが縦方向でも前後方向でもなく左右の横方向であるのか、ということにあり、ここで地球の引力が持ち出されたり、いろいろ議論があるようですが、基本的には、生命、生物の本質に関わる様に思われます。人間を含め、殆どの生物、とくに動物の身体は左右対称が基本型になっています。逆に言えば、鏡面対象になっている方向を横方向、すなわち左右と呼んでいるという事になります。

ちょうど当時、少しづつ読み進めていたカッシーラーの「シンボル形式の哲学」に見出された次の記述がもっとも根本的にこの原理を表しているように思われました。

☆ 視空間と蝕空間は、ユークリッド幾何学の測量的空間とは対照的に、ともに「異方性」と「異質性」をもつという点で一致している。「生物のもつおもな方向性、前と後・上と下・左と右は、視空間と蝕空間という二つの生理的空間において、ともに等価的でないという点で一致している。」 ― カッシーラー、「シンボル形式の哲学(木田元訳、岩波文庫)第二巻、神話的思考」より引用。引用中の引用は、原文の注記によればマッハによるそうです。

以上の引用中にある、前と後、上と下、左と右それぞれにおける異質性にもそれぞれ個性と違いがあり、少なくとも非常に明白に思われることは、前と後の異質性や上と下の異質性は、左右の異質性に比べて遙かに大きいとみなして差し支えないことです。現実の物や光景でも、絵でも、上下が逆さまになったり前後が逆になったりすれば誰でも気付きますが、左右が入れ替わってもすぐには気付かないし、気付いてもそれ程の違和感を感じません。何事においても天地が逆さまになればそれこそ大騒ぎですし、前と後もそうです。行列で並んでいても前と後の差は絶対的なものですが、左右の差は微妙なものです。左大臣と右大臣、右翼と左翼、左側通行と右側通行、こういう場合の左右の差は微妙なもので、いつの間にか入れ替わったりしています。その反面、論争の対立は常に左右の対立にされます。つまり同一平面上での対立は常に左右の対立になってしまいます。

以上のような上下と左右(前後はこの際除外し)それぞれが持つ本質的な個性が文字の縦書きと横書きの機能的な差異に関わってくるのは当然のことと思われます。端的に言って縦書きにおける上下の異質性に比べ、横書きにおける左右の異質性は遙かに少ないという事が言えるのです。このことから以下のようなことがすべて説明できるようになると思われます。

■ アルファベットによる英語などのヨーロッパ言語の記述が横書きでなければならないこと。
■ 数式が横書きに適していること。
■ 漢語、ハングル、そして日本語などは縦書きも横書きも可能であるが、横書きの場合は左横書きも右横書きも可能であること。
■ 横書きにおける有利さを比較した場合、漢語や日本語よりもアルファベットによるヨーロッパ言語の方がより有利であること。しかし、工夫によってはこれは改善できる。また漢語やハングルに比べて日本語の方が横書きにも有利である可能性がある。
■ 漢字仮名交じりの日本語は横書きの場合も縦書きの場合も漢語やハングル、あるいは仮名のみによる記述よりも有利であるが、この有利さは横書きにおいてより大きく作用する。
■ 縦書きの段組は横書きの段組に比べて短い場合が多いこと。
■ 横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性、確実性に優れる可能性がある。

以上の項目それぞれ、回を改めて考察してみたいのですが、最後に掲げた、横書きは速読性に優れ、縦書きは正確性に優れるという点は、これまで指摘されたことはないのではないか、と推測しています。「横書き登場」においてもこのことには触れられていません。

速読性に優れることは、他方、誤りが生じやすいという可能性につながるように思われます。確かめたわけではありませんが、横書きでは誤記、誤読の可能性が高いような気がします

以上、今回はこれまでにします。

関連リンク


2010年8月23日月曜日

The image and the medium that carries the image

(This is the English summary of the last article in Japanese)

It is hard to separate each other the image and the medium that carries the image.

However, virtual images in optics such as the mirror image and the magnifier image can be easily identified as pure images separated from the media.

There is no significant difference in reality between the virtual image and the image of the naked eye. If you are short sighted, the virtual image of eyeglasses can be clearer than the image of the naked eye.

The image of the photography, the cinema, videos, etc is derived from the real image in optics.

There is no difference in reality between the real image and the virtual image because the real image such as the image of the telescope becomes the true image only after you see it and when you see it, the real image is no more than the set of points the light passes and you are only seeing the image of the image source through the lenses. This situation is identical to seeing the virtual image.

So there is no difference in reality between the real image and the virtual image.

Imageries such as photo prints, video screens and the like are derived from the real image but are not the real image themselves. Those imageries are image sources themselves as well as are the carriers of the original real image

To see imageries such as photo prints is to see two different images, of which one is the original real image and the other is the image of the medium. And for the original real image, the other functions as the noise.

Therefore, the image of the medium itself that carries the original real image functions as a noise to the original real image.

This noise of the medium can be reduced optically.

◆http://www.te-kogei.com/patent/koho_imageglass.html