このシリーズで、前回は平面パターンと立体の認知の問題について再考してみましたが、この問題を掘り下げるには記憶の問題について多少とも考察せざるを得なることに気付きます。端的に言って記憶力なしでは視覚認知自体が、他の認知問題と同様、存在しないでしょう。記憶はあまりにもあらゆる認知に深く関わっている故、記憶力そのものがテーマとして研究され、記憶力自体の研究が目的ではない他の分野では、記憶力はあらゆる認知において遍在するものとして、表面に浮上することは少ないのではないかと考えられます。
ヒトの視覚では原理的に物の表面しか見ることができません。だからといって、立体を見る場合でも目に見える部分だけで形状を認識しているとは言えず、たとえ人物の正面だけしか見えなくても、その姿を人間として認知している以上は三次元の立体像として見ているのであって、正面だけの張り子のような表面として認識しているわけではありません。当然、目に見えない部分を想定して認知しているのであり、家族のような身近な人物の場合はいつでも前後左右あるいは上下についても良く記憶している上に特定の時点を取ってみても、その直前まで後ろ姿を見ていたのならまず間違いなくかなりの正確さで立体としての全体像を把握していいます。
都会の往来を歩くときなどはたいていそうですが、まったくの他人を始めて見る場合でも衣服や髪型などを含め、正面から見るだけでかなり正確な全体像を認知しているといえます。記憶には長期記憶と短期記憶とがあると言われていますが、このような場合は長期記憶が大きく作用しているに違いありません。
そもそも知らない人でも人間として、さらには男女や人種やその他諸々の特長の記憶により、そういう人物として認識できるのはやはり人間として、その種の人物としての特長を記憶しているからに他ならないでしょう。そう認識できると言うより、実際そのようにしか認識できないでしょう。これは対象を直接見る場合も鏡やレンズを介して見る場合もなんら異なることがないのは、前回(その11)検討してきたとおりです。
このように直接見る像にしても鏡像にしても同様に記憶、詳しく言えば長期記憶と短期記憶の両方が関わっているのですから、鏡映反転の原因あるいはメカニズムにおいて記憶が重要な要因となっているということは考えにくいことです。鏡映反転は二つの像を比較することで成立する現象ですから、どちらの認知にも同様に機能している記憶の問題は消去されるはずです。
2007年の毎日新聞で取り上げられ、鏡映反転を説明する理論として有名な「多重プロセス理論」と呼ばれる髙野陽太郎東大名誉教授の理論では、文字が鏡で左右反転して見えるプロセスを特別に「表象反転」と名付け、この場合に限って記憶が主要な役割を果たしているとしています。確かに、文字のような記号の場合、一般的な記号としての形状を認識していることが特徴ですから、一見、この説には人の興味を引くところがあります。しかし文字ではなく人物像の場合でも、ヒト一般の特徴、頭が上にあり脚が下にあって二足歩行し、大抵は衣服を着けているという特徴は、詰まるところ記号に他ならず、すでに見てきたとおり、記憶に基づいています。何も文字に限られているわけではないのです。左右の特徴にしても、例えば男性用のジャケットでは必ず左側に胸ポケットが付いています。日本の道路では車は左側通行です。普通の人はこういうことは記憶していますから、注意して鏡を見れば左右が逆になっていることに気付く人は気づくでしょう。
こう見てくると鏡映反転の機構を説明する概念として記憶を主要因とする「表象反転」(表象反転という用語法にも疑問があります)には意味がないことが分かります。確かに文字の場合に認知プロセスにおいて長期の記憶が主要な役割を果たしていることが多いのは事実ですが、長期記憶だけでは間違える場合も当然あります。世の中にはレオナルド・ダ・ヴィンチも使ったと言われるいわゆる「鏡文字」というものがあり得ます。またアルファベットのEの左右を反転するとカタカナのヨになります。ですから、正確には鏡像は直接見る像と比較しなければ差異を判別できないものです。これは文字であってもなくても関係ありません。
別の面から言えば、何らかのプロセスを説明し得たところで原因を突き止めたことにはなりません。そのプロセスのどこに原因があるか、そのプロセスに原因が含まれているかを示す必用があるでしょう。
また文字の場合の鏡映反転に付いて特に着目すべき点は、それが記号であるということではなく、二次元の形状であること、それと、形状の上下と左右のあり方に特徴があることといえます。しかし今回のテーマは記憶なので、この問題についてはこれまでにしておきます。
次回は鏡映反転において対掌体の性質が持つ意義について考えてみたいと思います。
「意味」にまつわる意味深長で多様なテーマを取り上げています。 2011年2月13日から1年間ほどhttp://yakuruma.blog.fc2.com に移転して更新していましたが、2011年12月28日より当サイトで更新を再開しました。上記サイトは現在『矢車SITE』として当ブログを含めた更新情報やつぶやきを写真とともに掲載しています。
2016年12月18日日曜日
2016年11月6日日曜日
昨日の補足(鏡像の意味論その11)
以下、昨日の補足で、最後から続きます。
【画像の場合】
画像の場合も一定の条件付きで平面ではなく立体像であるといえる。なぜなら、画像として表現されたイメージ自体は立体像である以上、それは立体と見なさなければならない。
人が画像を見る場合、同時に2つの異なるものを見ているのである。一つは物質としての二次元的表面であり、もう一つは画像に表現されている像である。上質の画像を正面から見るとき、鏡像と同様に、三次元の本物と間違うこともまれではない。そのときは、画像の表面を見ていないのである。紙の場合はアート紙や、ビニール張りなど、光沢を付けるのは表面を見えなくするための努力に他ならない。映像の場合も、ひたすら表面を見えなくするための努力が続けられて来たといえる。
もちろん鏡像が立体であるのと同じ条件で立体とはいえない。正確に認知するには真正面から見る場合に限られるし、画像に表現されていない部分は絶対に見ることはできないのはもちろんである。網膜による像の認知もある意味これと共通する要素があるかもしれないが、網膜の場合は表面を見ることは絶対に不可能である。
従って、真正面から上質の画像を見る限り、立体像という点で条件付きで鏡像と比較することもできよう。
【画像の場合】
画像の場合も一定の条件付きで平面ではなく立体像であるといえる。なぜなら、画像として表現されたイメージ自体は立体像である以上、それは立体と見なさなければならない。
人が画像を見る場合、同時に2つの異なるものを見ているのである。一つは物質としての二次元的表面であり、もう一つは画像に表現されている像である。上質の画像を正面から見るとき、鏡像と同様に、三次元の本物と間違うこともまれではない。そのときは、画像の表面を見ていないのである。紙の場合はアート紙や、ビニール張りなど、光沢を付けるのは表面を見えなくするための努力に他ならない。映像の場合も、ひたすら表面を見えなくするための努力が続けられて来たといえる。
もちろん鏡像が立体であるのと同じ条件で立体とはいえない。正確に認知するには真正面から見る場合に限られるし、画像に表現されていない部分は絶対に見ることはできないのはもちろんである。網膜による像の認知もある意味これと共通する要素があるかもしれないが、網膜の場合は表面を見ることは絶対に不可能である。
従って、真正面から上質の画像を見る限り、立体像という点で条件付きで鏡像と比較することもできよう。
2016年11月5日土曜日
鏡像の意味論 その11、鏡像と虚像 ― 鏡像は平面パターンであるという初歩的な誤解 ― 鏡像は単独では直接の像と区別できないこと
「鏡像は平面パターンである」と考える人が結構いることは以前から分かっていたが、そう思っている人は意外と多く、それも科学者、もちろん光学の専門家ではないが、理科系の科学者や学生でもそういう人はまれではないかもしれない。とすれば人文系の科学者ではなおさら多いことは不思議ではないが、最近はこの問題で、ある意味、ショックを受けている。ある意味仕方のないことかもしれないが、しかし仮に心理学、視覚を扱う知覚心理学の分野で指導的な学者が幾何光学についてこの程度の認識しか持っていないとすれば、そういう分野自体が少々心許ないことになる。鏡像が虚像であるという幾何光学の説明はおそらく現在でも中学か、少なくとも高校の物理で習っている筈と思う。
【画像と鏡像の比較】
とりあえず鏡像が立体であり、二次元パターンではないことを、簡単に図示してみよう。次の図は前面が写真などの画像になっているパネル状の物体を上から見たところとする。前面前害が画像である。当然、Aの位置とBの位置ではそれぞれ異なって見えるが、特に大きく異なるのは全体の横幅である。しかし描かれている画像は平面パターンだから全体が見えることに変わりなく、正面向きの顔が表現されているとすれば、どこでも同じ正面向きの顔が見えることに変わりはない。これは図を描くまでもなく分かることである。
一方、鏡像ではどうだろうか?下の図は鏡像の説明である。ちなみに矢印付き直線は光の進行を表し、波線は上図と同様、視角を表している。
人物Bは真正面から自分の鏡像を見ているのに対し、Aの位置では斜め横向きの顔が見える。AにはB君の右ほほにある斑点は見えないだろう。逆にB君は四角い顔の両側面は本人には見えないだろう。しかしA君にはB君の左側側面がよく見える。
視角に着いて言えば、上図の画像の場合、Aの位置ではBの位置でよりも狭くなっているが、下図のAの位置では逆にBの位置でよりも大きくなり、画像の場合とは逆になっている。もちろんこれは常にそうなるのではなく、像の形状によるものではあるが。
確かにヒトの視覚では物の表面しか見えない。しかしこれは鏡像であることとは関係がない。同時に顔の正面と横顔を同時に見ることはできないが、これも鏡を通さず直接見る姿でも同じことである。
またこの絵の状況では確かに鏡に映った顔の後ろや上から見た姿も見ることはできない。 しかし直接他人を見る場合でもそのような状況はきわめて普通である。どちらの場合も光源の位置と目の位置を動かすことで、どの角度からも見ることができるのである。要するに、鏡を介さずに見ている対象が立体であるといえるのであれば、鏡像も立体であり、鏡像と鏡を介さない像とを区別することはできない。
【虚像について】
光学、正確に言えば幾何光学では鏡像は虚像と呼ばれる。鏡像は虚像の一種である。虚像とは何か、要するに目に見える物と目との間に光を反射あるいは屈折させる物体が介在するだけのことである。だから鏡像はもちろん虚像だが、ルーペで見る像も虚像と呼ばれる。鏡像とルーペで見る像が虚像であればメガネで見る像も虚像ということになる。当然、近視や乱視のメガネもそうである。どんなに度のゆるいメガネであっても、始めてメガネをかけたとき、肉眼だけで見るときとは異なった距離に見えるものである。だから肉眼で見るのとは異なる像を見ていることになる。これはれっきとした虚像である。このように見てくると、肉眼で見る像もつまるところ、虚像に他ならないのである。あらゆる像は虚像である。結局のところ、すべて網膜に映った像から知覚している像に他ならない。
【網膜像について】
網膜に映った像が平面パターンであるから、結局のところヒトが認知する像自体も立体ではないと考える向きがある。しかしヒトは自分の目の網膜像を見ているのではない。いったい、自分の目の網膜像、正確には曲面ではあるが、とりあえず網膜上の平面パターンを見た人がいるだろうか。網膜像を平面パターンとして見るには網膜を別の眼で見なければならない。
普通、網膜像が平面パターンであるということは、人は知識として知っているだけであって、実際にそのようなものを見た人はいない。
網膜像は眼の解剖学的な知見と、凸レンズの幾何光学的知見とから想定される概念以上のものではない。 もちろん、概念として厳然として存在することは確かである。しかし、目で見える像(image)ではないし、まして、上記のように自分の目の網膜像を見られる筈もない。
このように、人は平面的な網膜像というものを知っているが、それは解剖学と幾何光学の先達の遺産をそのまま意識せず、感謝もせずに受けとっているだけなのである。
鏡像の場合も同様。鏡の幾何光学をよくよく理解することなく、鏡像の問題を語ることはできないのである。
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