「嘘を知る」という表現はあまり聞かない。「嘘であることを知る」とか、「嘘だったことを知る」とか「嘘の内容を知る」というような表現はありうる。
しかし、「嘘を認識する」という表現はありそうだ。だいたい「嘘であることを認識する」というのと同じような意味になりそうである。
一方、「真実を知る」という表現は問題なくよく使われる。「真実を認識する」という表現も問題ない。
では、「虚構を知る」と「虚構を認識する」ではどうだろう。「虚構を知る」とはあまり言わず、言うのであれば「虚構であることを知る」という表現になるだろう。それに対して「虚構を認識する」はそれ程不自然ではなく、「虚構であることを認識する」と同じような意味にとられるのではないだろうか。
最後に「錯覚」または「幻覚」あるいは「幻影」のような言葉の場合はどうだろうか。
「錯覚を知る」とはあまり言わないが、「錯覚を認識する」とは心理学などの文章ではよく出現しそうである。しかし、こういう表現になるとかなり多義的になってくるように思われる。これは「錯覚そのもの、錯覚の内容を認識する」ようにもとれるし、「錯覚であることを認識する」ようにもとれる。「幻覚」でも「幻影」でも同様。これでは全く反対の意味になる。日本語であれ英語であれ、どの言語にも共通して言えることであると思う。
「意味」にまつわる意味深長で多様なテーマを取り上げています。 2011年2月13日から1年間ほどhttp://yakuruma.blog.fc2.com に移転して更新していましたが、2011年12月28日より当サイトで更新を再開しました。上記サイトは現在『矢車SITE』として当ブログを含めた更新情報やつぶやきを写真とともに掲載しています。
2013年7月2日火曜日
2013年6月20日木曜日
「系」と「System」の対応関係とそれぞれの意味の複雑さについて(その2)
先般、システムと系の意味深長な意味の差異 という記事を書いたが、「System」と「系」それぞれの本来の意味と訳し方については色々と微妙な問題が含まれているように思われる。まず実例をいくつか挙げてみたい。
- 「frame of reference」という用語は専門用語辞典によると基礎用語として『基準系』という訳語のみが与えられている。他方、研究社理化学英和辞典によると『基準座標系』という訳語が与えられている。もう一つ、岩波理化学辞典にはこの用語は出ていなかった。岩波理化学辞典は用語辞典ではないので、あまり些細な項目は取り上げられていないという傾向はあるが、少し気にはなる。
- この『基準系』をウィキペディア日本語版で調べてみると、次のように説明されている。「基準系、基準座標系、または参照系 (英: frame of reference) は、物理学において、系の内部の対象の位置、方位、およびその他の性質の測定を行う基準となる座標系または座標軸の集合、または観測者の運動の状態に結びつけられた観測基準系 (observational reference frame) を言う。」
- 前項に引いたウィキペディアの説明では単独で「系」という用語が使われているが、この「系」を上述の各辞典で調べてみると、用語辞典では分野毎に様々な対応する英語が挙げられているが、もちろん多くの分野で「system」がもっとも多い。但しこの用語を研究社理化学辞典で調べると対応するのは数学用語としての「corollary」のみであり、岩波の理化学辞典では何も出ていない。
- 「system」単独では、岩波理化学辞典には項目がないが、研究社の理化学英和辞典では物理用語として「系、体系、物質系、物理系」の訳語が挙げられ、「有機的な関連をもった部分の集まり、特に物理的考察の対象として環境から区別して理念的に抽出したもの」との説明が与えられている。
- 「座標系」は、どの辞書でも「system of coordinate」または「coordinate system」であり、これはそのまま日本語の熟語にきれいに一致し、対応している。また岩波理化学辞典には「座標」の項目の中に詳しい説明があり、「座標の各点に対する座標成分のあたえ方を決める方式」となっている。つまり、systemが「方式」の意味で使われていると言える。この説明はウィキペディアでもだいたい同じであって、座標系の種類として直交座標系とか極座標系とかが挙げられている。
以上の例のみでなく色々な例を考えあわせて見るに、ただ物理学用語として考えた場合でも、「系」の持つ意味的なニュアンスと「system」の持つ意味的なニュアンスはかなり異なっているように思われる。この意味上の差異が文脈によって重要な意味を持つ場合があるとは言えないだろうか。例えば「座標の変換」というような概念の用い方や捉え方にも影響が及んでいる可能性も考えられるのではないだろうか。
2013年6月7日金曜日
カント、プロレゴーメナ再読後のつぶやき
先週だったか、先々週だったか、かつて一度だけ読んだカントの『プロレゴーメナ』を再読了した。とにもかくにも通読はし切った記憶のあるわずかな哲学書の一つである。最近になってこの書を再読するきっかけとなったのは、昨年あたり、純粋理性批判を読み始め、最初の「先験的感性論」だけは何とか読み切ったものの、その後、カテゴリーの問題に入ってからは読み続けることができなくなり、そこでひとまず打ち切り、この書を再読することに決めた次第。
最初にこの書、プロレゴーメナの存在を知ったのは、かつてある私立大学文学部の夜間部に1年ほど通ったとき、教養物理の先生から授業中に勧められた時である。その先生はカント哲学は物理学にとって必須との考えだったようで、純粋理性批判は難しいのでプロレゴーメナを読むのがが良いと。ただ文学部での授業であったためにそのような話をしたので、専門の物理学や工学部の学生にはそのような話はしないのだとも言っておられたような記憶もある。
実際に読んだのは当時すぐにではなく、何年か後になってからだと記憶している。いつどこで読んだのかは記憶に残っていないが、当時の、もうかなり変色した岩波文庫本をとってみると最後まで鉛筆で線を引いた箇所がかなりあり、とにかく読み切ったという記憶には間違いなかったのだなあという感慨はあった。
その後、といっても今はもう昔、「意志と表象としての世界」を読んで、これも内容を記憶しているというわけにはゆかないが、ショーペンハウアーがプロレゴーメナを推奨していた箇所があったのだけはよく覚えている。この本は純粋理性批判の理解を著しく容易にするものであるのに、読まれることが少ない、と嘆いていたように記憶している。
ゲーテは、プロレゴーメナに言及しているかどうかは知らないが、カント哲学についてはいくつかの箇所で言及していることには気づいている。例えばエッカーマンに対して、「カントの思想はもうドイツ人の血肉になっているので、君はもう純粋理性批判を読む必要はないだろう」、「君が読むなら判断力批判を読みたまえ」というようなことを語っていたように記憶している。
確かに、現代人、世界中の現代人全体にとって、ある程度はそのようなこと、つまりゲーテがエッカーマンに語ったようなことが言えるといっても良いのではないだろうか。もちろん個人や社会や文化によって濃淡があるし、意識化の程度も大きく異なるだろうが。さらに時代の推移によって薄れていったり復活したりという波のようなものはあるだろうが。
私の場合、当時、プロレゴーメナを読んで以降、プロレゴーメナに何が、どのようなことが書かれてあったかを説明できたかというと、全くそのようなことはなかった。何が書かれていたかと問われれば、忘れたと答えるしかなかっただろう。しかし、それ以降、ある程度は無意識にも血肉になっている部分はあったといえると思っている。
先の私立大学文学部の夜間部を1年あまりでやめ、1年おいて本州の西の果てにも近い大学の一応は理科系学部に地質鉱物専攻で入学したのだが、そのころはもう科学信仰というべきか、自然科学に対するあこがれのようなものはなくなっていたのだが、それでも自然科学に対するこだわりの気持ちは結構強いものがあった。自然科学に対するカントの、あるいはプロレゴーメナの思想がある程度は身についていたのかもしれないと思う。たとえ直接カントの著作から得たものではなかったとしてもである。
せっかくここまで来たのだから、純粋理性批判を読むことを再開したいものだが、中巻と下巻は購入していないので同じ訳者のものを続けて読むか、改めて別の訳者のものを読むかを迷っている。現在あるのはプロレゴーメナと同じ岩波文庫で、訳者も同じである。最近、ここ数年の間に木田元氏の短い哲学解説書を文庫本で何冊も読んだが、この著作の翻訳について触れている箇所や文献案内もあったので、参考になるのだが、それにしても現在の訳者に対しての個人的な印象は悪くない。
翌日追記
同じ大学の同じ教授の教養物理であっても理科系での講義は文化系での講義に違いが出るというのは十分に考えられることであるし、当然のことともいえるが、さらに理科系での講義では哲学的、あるいは思索的な側面がなおざりにされるということも、当然とも、予測できることともいえるが、やはりそれはさびしいともいえるし、残念なことであるともいえる。自然科学そのものというか自然科学全体が工学的な方向に傾く傾向が続く一方であるともいえる。
どこの国でも国を挙げての科学技術奨励の風潮も高まる一方であるが、他方、一般人のあいだでは科学への不信感や絶望感も広がっている。
もちろん技術開発の喜び、それも純粋な、技術開発そのものの喜びというものはあるに違いはないが、科学そのものの喜び、というのが不適切であるとすれば、やむに止まれぬ探求というものがなおざりにされる結果に至るのではないかと思うのである。科学による自己疎外、といいながら自分でもこの言葉の意味はよくわからないが、そういうものが自然科学専攻の学習者の心の深層に沈潜するというような考えは一種の老婆心であろうか。
テレビの科学番組も事実上、殆ど新技術の紹介に過ぎない。そうでなければダーウィン礼賛を看板にした自然選択による進化論喧伝する番組化のどちらかである。事実上、珍しい生物の生態を紹介する番組に過ぎないので、それはそれで楽しめるものではあるのだが、一方で欺瞞が蔓延してゆく。
まあこんなところか。
最初にこの書、プロレゴーメナの存在を知ったのは、かつてある私立大学文学部の夜間部に1年ほど通ったとき、教養物理の先生から授業中に勧められた時である。その先生はカント哲学は物理学にとって必須との考えだったようで、純粋理性批判は難しいのでプロレゴーメナを読むのがが良いと。ただ文学部での授業であったためにそのような話をしたので、専門の物理学や工学部の学生にはそのような話はしないのだとも言っておられたような記憶もある。
実際に読んだのは当時すぐにではなく、何年か後になってからだと記憶している。いつどこで読んだのかは記憶に残っていないが、当時の、もうかなり変色した岩波文庫本をとってみると最後まで鉛筆で線を引いた箇所がかなりあり、とにかく読み切ったという記憶には間違いなかったのだなあという感慨はあった。
その後、といっても今はもう昔、「意志と表象としての世界」を読んで、これも内容を記憶しているというわけにはゆかないが、ショーペンハウアーがプロレゴーメナを推奨していた箇所があったのだけはよく覚えている。この本は純粋理性批判の理解を著しく容易にするものであるのに、読まれることが少ない、と嘆いていたように記憶している。
ゲーテは、プロレゴーメナに言及しているかどうかは知らないが、カント哲学についてはいくつかの箇所で言及していることには気づいている。例えばエッカーマンに対して、「カントの思想はもうドイツ人の血肉になっているので、君はもう純粋理性批判を読む必要はないだろう」、「君が読むなら判断力批判を読みたまえ」というようなことを語っていたように記憶している。
確かに、現代人、世界中の現代人全体にとって、ある程度はそのようなこと、つまりゲーテがエッカーマンに語ったようなことが言えるといっても良いのではないだろうか。もちろん個人や社会や文化によって濃淡があるし、意識化の程度も大きく異なるだろうが。さらに時代の推移によって薄れていったり復活したりという波のようなものはあるだろうが。
私の場合、当時、プロレゴーメナを読んで以降、プロレゴーメナに何が、どのようなことが書かれてあったかを説明できたかというと、全くそのようなことはなかった。何が書かれていたかと問われれば、忘れたと答えるしかなかっただろう。しかし、それ以降、ある程度は無意識にも血肉になっている部分はあったといえると思っている。
先の私立大学文学部の夜間部を1年あまりでやめ、1年おいて本州の西の果てにも近い大学の一応は理科系学部に地質鉱物専攻で入学したのだが、そのころはもう科学信仰というべきか、自然科学に対するあこがれのようなものはなくなっていたのだが、それでも自然科学に対するこだわりの気持ちは結構強いものがあった。自然科学に対するカントの、あるいはプロレゴーメナの思想がある程度は身についていたのかもしれないと思う。たとえ直接カントの著作から得たものではなかったとしてもである。
せっかくここまで来たのだから、純粋理性批判を読むことを再開したいものだが、中巻と下巻は購入していないので同じ訳者のものを続けて読むか、改めて別の訳者のものを読むかを迷っている。現在あるのはプロレゴーメナと同じ岩波文庫で、訳者も同じである。最近、ここ数年の間に木田元氏の短い哲学解説書を文庫本で何冊も読んだが、この著作の翻訳について触れている箇所や文献案内もあったので、参考になるのだが、それにしても現在の訳者に対しての個人的な印象は悪くない。
翌日追記
同じ大学の同じ教授の教養物理であっても理科系での講義は文化系での講義に違いが出るというのは十分に考えられることであるし、当然のことともいえるが、さらに理科系での講義では哲学的、あるいは思索的な側面がなおざりにされるということも、当然とも、予測できることともいえるが、やはりそれはさびしいともいえるし、残念なことであるともいえる。自然科学そのものというか自然科学全体が工学的な方向に傾く傾向が続く一方であるともいえる。
どこの国でも国を挙げての科学技術奨励の風潮も高まる一方であるが、他方、一般人のあいだでは科学への不信感や絶望感も広がっている。
もちろん技術開発の喜び、それも純粋な、技術開発そのものの喜びというものはあるに違いはないが、科学そのものの喜び、というのが不適切であるとすれば、やむに止まれぬ探求というものがなおざりにされる結果に至るのではないかと思うのである。科学による自己疎外、といいながら自分でもこの言葉の意味はよくわからないが、そういうものが自然科学専攻の学習者の心の深層に沈潜するというような考えは一種の老婆心であろうか。
テレビの科学番組も事実上、殆ど新技術の紹介に過ぎない。そうでなければダーウィン礼賛を看板にした自然選択による進化論喧伝する番組化のどちらかである。事実上、珍しい生物の生態を紹介する番組に過ぎないので、それはそれで楽しめるものではあるのだが、一方で欺瞞が蔓延してゆく。
まあこんなところか。
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